白の神子姫と竜の魔法 第21話
あー……あったかい。
ふんわりふわふわ……気持ちいい。すべすべだし。ん? すべすべって何が? すべすべ……。
違和感に目をぱちっと開けたら、目の前にジークフリードの顔のドアップがあった。触っていたのは、ジークフリードの頬だった!
悲鳴をあげなかったのは、冷静だったのでもなんでもない。人間、驚きすぎると声が出ないのだ。
あれから一人で寝たと思っていたけれど、ジークフリードはこの部屋に帰ってきてくれたらしい。
「…………」
ジークフリードが寝ているのを見るのはめずらしくて、ついじっと見入っていたら、すぐに目覚めてしまった。
「……お早いお目覚めですね」
「うん。……フィンのおかげかな。物凄く元気なの」
みるみるジークフリードは笑顔になって、私を引き寄せた。
「それは、がんばった甲斐がありました」
うううわ、ちょっと、下半身が当たってるって。さすがに朝は嫌だよ! 焦っていたらジークフリードの笑いを含んだ吐息が耳にかかり、より強く引き寄せ……抱き寄せられた。
わーっわーっ! 押し付けないで!
「鈴……」
「駄目駄目! フィンはお仕事なんじゃないの!?」
「そうでした」
残念そうにジークフリードは私を離し、気だるそうに起き上がった。黒の鱗に覆われていない、彼の裸身は珍しい。恥ずかしいけど気になって見てしまう。
剣を振るっているところは見たことがないけれど、明らかにそういった類の傷が大小ある。どれも致命傷ではなかったようで、そんなに醜い跡にはなっていない。余分な筋肉がなく、鋼のように鍛えあげられているその身体は、屈強な軍人であるもう一人の彼を彷彿とさせた。
「……観察は終わりましたか?」
立ち上がって振り返ったジークフリードに、私は素直にうなずいた。微笑を浮かべたまま、ジークフリードは次々に服を着ていく。手伝ってあげたほうがいいのだろうけれど、手際が良すぎて手を挟めそうもなかった。
「仕事に帰るってことは、またしばらく逢えないのかな?」
国境付近のここから、王宮はとても遠そうだ。
「我々一族は、王宮への瞬間転移を許されていますから、直ぐに逢えますよ」
「瞬間転移?」
「何をいまさら。我々のように魔力を持つ者には、赤子の手遊びのようにたやすい事です。このマリクには、至るところに瞬間転移陣があって、緊急時や許された者だけがそれを使用できるようになっています」
「でも、ギュンター王子は」
「この国の人間ではないギュンター王子には、それは許されませんから」
「……そうなんだ」
いつもの宰相の服を着たジークフリードは、やっぱり格好良かった。
「フィン、疲れてない?」
「大丈夫です。あれしきの魔力譲渡で倒れるほど、弱くはありません」
にこりと微笑むジークフリードの顔が近づいてきて、唇が重なった。また魔力を補充される。
「魔力を補充されていても、何かを口にしたかったらなさい。害にはなりません。もうすぐ貴女を世話する、ジーナという女性が来る。気さくな老女だから何でも言うといい。私の乳母だった女だ」
「わかった」
うなずいたら、ジークフリードは再度唇を重ねてきた。今度はとても長かった。舌が差し込まれお互い唇を吸いあう。魔力はどんどん流れてきて、とてもおいしい……。
唇を離して、ジークフリードは立ち上がった。
「行ってきますね」
私は、遠ざかっていくその背中に、慌てて呼びかけた。
「行ってらっしゃい!」
一瞬驚いたように振り返り、行ってきますと恥ずかしそうに返して出て行ったのは、物凄く新鮮な彼だった。
それからしばらくして、物凄く太ったおばあちゃんが部屋へノックしてから入ってきた。灰色の服に白のエプロン、白髪を後ろにまとめてにこにこ笑う、感じのいい人だ。
「お初にお目にかかります、鈴様。ジーナと申します。以後見知りおきくださいませ」
「こちらこそよろしくお願いします」
ぜんぜん似てないけれど、テレジアさんを思い出してしまった。彼女は今どうしているだろうか……。でもジークフリードが今日報告をするはずだから、心配ないか。
ジーナは、私の身だしなみを整えると、ゆったりとしたクリーム色のドレスを着せ、髪を結い上げてくれた。この世界では後ろに縛ってたらすのは、下々の人間の髪型らしく、貴人は結い上げるのが普通だ。たらすほうが楽なんだけどなあ。
「ジーナさん。私、お城を探検したいんですけれど、よろしいですか?」
「ええもちろん。南の塔以外は許されております」
なんかそれ、黒竜公も言ってたな。
化粧を施されながら、すさまじいオーラを放っていた、ジークフリードの父親を思い出す。
「こ、黒竜公がお住まいなんですか? そこに」
「ええ。普段はいつもそこでお過ごしです。公は、騒がしいのとお客人を嫌われますので、絶対に行かれませんように」
「気難しい方なの?」
「口紅を塗りますので、すこしお黙りくださいね」
う、ごめん、べちゃくちゃと。
ジーナは、ローズピンクの口紅を丁寧に塗ってくれた。物凄く早い。鏡を見たら、どこにでもいる貴婦人に仕上がっていた。
「ありがとう。なんか別人みたい」
「ほほほ。ありがとうございます」
うれしそうにジーナは笑い、化粧箱を片付けた。開かれたカーテンからは、美しい花々が咲き誇った庭が見える。外の風景が見えないのは残念だけど、国境の城で外部が丸見えなんてありえないから仕方がない。北側の物見の塔からは、四方が見渡せるのだろう。絶対に連れて行ってもらおうっと。
てきぱきとあたりを片付け、ジーナは思い出したように言った。
「そうそう。黒竜公様についてですね。あの方は気難しい方です。お子様方にも決してお心は開かれませんし、お世話する者に対してもです。もっとも、あの近寄りがたい雰囲気をお持ちでは、近づこうとするつわものもおりませんがね」
やっぱりそうなんだ。
「もう何百年も生きておいでなんですよね? 竜族だから……」
「そうですね。ジークフリード様とは少し御年上の、三百四十九歳になられます」
そういえば、私、ジークフリードの年齢知らなかったわ。
「ジークフリードはいくつなの?」
「三百二十一におなりです」
「ジーナさんは?」
「私も竜族です。ほほ、一万を越えたあたりで、数えるのを止めました」
一万~!? びっくりだ。何だその数字。
びっくりしている私に、ジーナは竜族では当たり前だと付け加えた。
でも、なんだかおかしくない? 怪我や病気には弱くて、早死にしたりするのに、この差は何?
ふふふとジーナは意味深に微笑み、私のためにお茶を注いでくれた。
「愛する人間ができたら、竜族は長命になります。もっとも、持って生まれた病気や重い怪我には勝てません。でも愛する存在を得ますと、段違いの寿命の差が出ます」
「へええ……」
愛……ねえ。なんか恥ずかしいな。人の口から、こういう言葉が出てくるのは。なんだか空気を持て余して、お茶を一口飲んだ。
「ジークフリード様は、どうなるかと心配いたしましたが。鈴様がおいでくださったので、長命になられるでしょう」
「わ、わ、私なんかでいいのかどうか」
わかってるぞ、あんたらが昨晩いちゃついてたのはって視線に当てられ、なんか弁解じみた言葉を吐く私に、ジーナはあらあら若い人たちは素晴らしいですわと、さらにからかってくる。一万年以上も生きると、すべての人が子供に見えるんだろう。私なんて多分……、生まれてから、ホンの数ヶ月しか経ってないんだし。
「作られた人間であろうが、どうであろうが、心が宿ってジークフリード様を愛してくださる。それだけで十分です」
その言葉の温度はとても温かくて、なんだかお母さんみたいだ。私は、お母さんてものは単語でしかわからない。でもきっと、こんな存在なんだろう。
それから部屋を出て、ジーナと二人でお城を探索した。お年寄りに見えてもジーナさんは矍鑠としていて、むしろ私より元気だ。元気な私より元気って、おそるべし、一万年の竜のパワー。
お城の中はやっぱり使用人が忙しくしていて、余裕がある者だけジーナが呼び止めて、私に挨拶させた。皆私を歓迎してくれているらしく、はち切れんばかりの笑顔で名前を名乗り、丁寧な挨拶を返してくれた。
いいわ……こういうの。ものすっごく安心する。王宮みたいに、リン王后にならなくてもいいから、素の私でいられる。
お城の内部は丁寧に掃除がされていて、どこもかしこも綺麗だ。華麗さにはかけていても、人の愛着が伝わってくる。
行きたかった北の物見の塔から見える景色は、大パノラマで興奮した。このあたりは緑に恵まれているから、青空と緑の大地の織り成す美しさがすばらしい。今日は風も優しくて、見ていて心が開放されていく……。
「すごい。私こんなの初めて!」
「それはよろしうございました」
アウゲンダキャッズのオトフリートは、元気かな。あの山の向こう側の、国境沿いなんだよね……。光の神殿があったのは。
昨日のことなのに、ものすごく昔に思えるのが不思議だ。
そういや、あのルーカス、王宮に帰ったのかなあ。ま、いいか。
ジークフリードは、今頃私のことを陛下に話している頃かしら。安心するといいな。
ジーナと二人、他愛のない話をしていたら、もう一人足音が階段のほうから響いてきた。警護の兵かなと、何気なく視線をそちらに巡らせたら、現れたのは、紺色のドレスを着た茶色の髪の美女だった。
「ラ、ラン様!」
ジーナが叫んで、その美女に駆け寄っていく。ラン様と呼ばれたその美女は、私を見るなりジーナを押しのけて、近寄ってきた。
な、なんだろ。
何だこの小娘は! って怒られるのかな。どうみても貴族の奥様って感じだし。
美女は、じっと私を見つめて言った。
「貴女ね……鈴」
「あ、はい」
名前を言われてうなずくと、ラン様は、とんでもない話だわと首を左右に振った。なんか怒っているみたいだ。
「あの……?」
「お逃げなさい」
「え?」
ラン様の目は、物凄く真剣に輝いている。
逃げるって何から?
「ここは恐ろしいところよ。まだ今なら間に合うから、早く逃げなさい。そうでないと……私みたいに……っ!」
とても切羽詰った形相で言われ、戸惑っていると、いきなり後ろの空間から黒竜公が現れた。瞬間転移だ。
黒竜公は一瞬私を睨んでから、ラン様に視線を移すと、妙に優しい顔になった。
「ラン」
低く甘い声で呼ばれたラン様は、はじかれた様に振り返って、身の毛もよだつ悲鳴を上げた。何? 何なのよっ。実はこれ偽者で、化け物か何かに見えるとか。私はラン様にしがみつかれ、何がどうなってるのかわからない。ジーナが気遣う声がする。
靴音を響かせて、黒竜公が近寄ってきた。
「ラン、いけませんね。いないと思ったらまたここでしたか……」
「こな……来ないで!」
「さあ帰りましょう? ここは身体が冷えてしまう。風邪をひきますよ」
優しい声なのに、黒竜公の目は人を従える王者の目だった。ラン様の震えは大きくなっていく。
「ラン」
黒竜公の手がラン様の肩に触れた途端、ラン様は脱力した。その彼女を黒竜公はさも大事そうに抱き寄せ、瞬間転移で姿を消した。
何だったの一体……。
しばらく放心して、はっとした。
「ジーナさん、今の誰?」
「黒竜公の奥様で、ラン様です」
ってことは、ジークフリードのお母さん!? あの美人が。ううん、ジークフリードは美形だから、特に違和感はないけれど……。
「逃げろって言ってたけど、何かここ危ないの?」
ジーナの顔は、翳っていた。
「いいえ。今は戦時ではありませんから。奥様は……少し、気を病んでおいでなのです。ですから、南の塔へは行かれないでください。病気が悪化します。また、ジークフリード様にも、おっしゃらないでくださいまし」
「う、うん」
またさっきのように穏やかな風が流れたけれど、ラン様の悲鳴のような逃げなさいの声が、耳の底に貼り付いて離れなかった。