天使のかたわれ 第09話
異国の気に包まれて起きた恵美は、深く深呼吸した。
(そうだ……ギリシャにいるんだった)
ベッドから降りて、室内スリッパを履いてカーテンを開けると、はるか向こうにパルテノン神殿が見えた。
良く晴れている。絶好の観光日和だ。
着替えて隣のリビングへ行くと、雅明が読んでいた新聞をたたんだ。
「良く寝てたね」
「おかげですっきりしたわ……」
「それはよかった。ものすごく熟睡してたね、昨夜」
「食事はどうしたの?」
「ホテルのレストランで一人で取った。心配ない」
「よかったわ」
恵美はほっとして、ソファに座った。
「朝食は食べられるだろう?」
「うん」
体調はかなり良くなっていた。雅明もそんな恵美にほっとした笑顔をみせた。
それにしても広い部屋だ。
貴明夫妻が予約していた部屋は、なんとかという名前が上につくスイートルームだ。寝室、リビング、キッチンと分かれていて、玄関とバルコニーまで付いている。たかだか数日泊まるだけに、一体何ユーロ払っているのだろうか。はるか昔に圭吾の貴族趣味に付き合っていた頃を、恵美はこのホテルによって思い出した。
昨日、ホテルのオーナーとフロント係の謝罪を受け入れた雅明が、二人にこの部屋へ案内させたのだが、そこでまたひと悶着があった。日本人の麻理子の為に揃えてあったはずのアメニティ一式が、全てほかの客に回されていたというのだ。キャンセルしたわけでもないのに起こったその事態に、また雅明が怒った。恵美はもうそんなものはどうでもいいから、早く横になりたかったので、必要なものは皆日本から持ってきたからいらないと、雅明と二人に言い、その場を手っ取り早く収めた。
「あのフロント係の嫌がらせに違いない」
ぶつぶつ言う雅明に恵美は呆れ果てた。別にいいではないか、もともと使うつもりなどなかったのだからと。しかし、そういう問題ではないと雅明は言う。そのアメニティは特別なオプションだから、本当ならば宿泊をキャンセルした客に買い取るかどうか聞くのが当たり前で、こんなふうに他人にあっさり回すなど有り得ないのだという。
頭痛と時差ぼけに苦しんでいる恵美には、本当にどうでもいい事件だった。恵美は上の空でそれを聞き、シャワーを浴びて着替えるからと雅明をリビングに追い出した……。
ホテルのレストランからも、丘の上に立つ白のパルテノン神殿が良く見えた。
「今日あそこ行きたいわ」
「いいよ。でも明後日からはツアーだからね」
「あら、貴明にしては珍しいわね。ツアーを予約していたなんて」
「しかも、セレブなツアーじゃなくて、ホントふつーなやつ」
「……ホテルも普通なのを祈るわ」
「そうだな」
雅明はヤギのチーズを振りかけた野菜サラダに、おそろしい量のオリーブオイルをぶっかけた。もはや野菜サラダのオリーブオイル漬けだ。
「ねえ、そんなにオイルかけて大丈夫なの?」
「ギリシャに来たらギリシャ風にしないとね」
涼しい顔で口に運ぶ雅明に、恵美はいささか胸が悪くなった。雅明は朝からよく食べるらしく、テーブルにはずらりと料理がならんでいて、ほかの客が目をまるくしている。恵美はといえば、普通にパンとオレンジジュース、ハムエッグとサラダだ。
「ギリシャ人は基本、朝はビスケットとかクッキーにコーヒーだけってのが多いよ」
むしゃむしゃと雅明が食べながら言う。
「じゃあこれは、本当に観光客用ってこと?」
「そうなるね。だいたい朝食を取るなんてのがめずらしいのさ」
「へええ……」
雅明は、日本にいる時間より、ヨーロッパにいる時間の方が長いので、かなり詳しそうだ。恵美には何もかも珍しかった。
朝食を済ませて、二人は早速外へ繰り出した。あまりの路駐の多さに恵美はびっくりし、ひっきりなしに走り回る車の排気ガスの濃度に思い切りむせた。
雅明が言った。
「恵美、サングラスはかけておいたほうがいいよ。あと、水の補給を忘れない事」
「うん……」
「ギリシャは、日本と違って湿気が無いからね。知らない間にどんどん身体中の水分をとられるんだ。熱中症にならないように、定期的に水分補給を忘れないでね」
サングラスをかけ、恵美は雅明を見上げた。当たり前だが本当に貴明にそっくりだ。サングラスをかけて帽子をかぶると、髪の毛が隠れてしまい、貴明と見分けがつかなくなる。声までそっくりそのままだ……。
土産物店が続く道を二人で歩くのは、なんだか楽しかった。
「昨日の深夜に日本へ電話したよ」
雅明が言った。
「なんか言ってた?」
英語で矢印とアクロポリスと書いてある、白い看板が見えた。二人はそこで曲がった。長崎の町のような段差の階段が、家々の中に上へ伸びている。
「あっちは大雨だって。でも皆元気だって」
「麻理子さんつわり大丈夫かな」
「今夜聞いておくよ」
ペルシャ猫の失敗作のような、グレーの毛色の猫が擦り寄ってきたところを、雅明がしっしと追っ払った。病気を持っているかもしれないのだという。そこかしこに猫や犬がいる。飼い猫もいるだろうが、大方が野良らしい。
階段ばかりが続き、恵美はばててきた。
「まるで山を登っている気分よ」
「そりゃあ、女神アテナの為に、わざわざ高い所に神殿建てたんだからねえ」
「ギリシャ神話の女神よね。でも、一番偉いのはゼウスでしょう?」
「アテネは女神アテナの街だからな。だから一番高い所に神殿がある。そら見えるだろ、パルテノンの下にあるあれは鍛冶の神ヘファイストスの神殿、あっちに見えるのがゼウスの神殿さ。下にあるだろう?」
「ふーん……。その街にとって偉い神が高い所に祭り上げられるのね」
「そういうこと」
やがて建て込んでいる民家を抜け、松の木がずらっと道筋に並んでいる、大きな道に出た。
「松って日本ってイメージだったんだけど」
「はは、松は乾燥した気候が繁殖に適しているからね」
しばらく歩いてから、ようやく神殿の入り口に二人は立った。恵美は何十分も歩いてくたくただった。今日の観光はここだけにしたほうが良さそうだ。
神殿へたどり着くのも、また大変な階段や坂が続くので、二人は一旦休憩することにして道の端に腰掛けた。そうやって休んでいる観光客がそのへんにいる。ピクニックのようにお弁当を食べているカップルもいた。
「たくさん見に来るのね」
「世界遺産の中でも、パルテノン神殿は特に有名だからな」
雅明が、手に持っていたスケッチブックを広げながら言う。
観光客は皆、ぞろぞろと神殿に向かう大きな階段を上っていく。沢山居る観光客の中に、日本人はおろか東洋人は一人もいなかった。
「なんでタクシーの運転手が珍しがったのか、今わかったわ」
くっくと雅明は笑う。
「地球儀見てみろよ。ヨーロッパ大陸から見たら、日本なんてホント東の果ての小さな島国だぜ」
「そうね……」
雅明は煙草に火をつけて燻らせた。鉛筆が紙の上を滑る音が、やけにリズミカルで小気味いい。
「風景を描いてるの?」
「いちおう絵で飯食ってるから……」
ふと恵美は思い出した。
「ただの画家じゃないわよね。ホテルのオーナーの態度、びっくりしたわよ。まるでライオンが来たかのような感じだったもの」
「あのホテルね、貴明が筆頭株主なの。だから兄の私もこわいのさ。昨日言いつけてやった」
「ふーん……」
手広くやっておりますねえ、佐藤社長さんは。こんな地球の裏側まで手を広げますか? と恵美は思いながら立ち上がった。あの時周囲の人々が囁いた名前については、何故か聞けない。
「で、貴方は、さっきから何描いてるわけ?」
スケッチブックを覗き込むと、やはり雅明は恵美を描いていた。
「恥ずかしいからやめてよ」
「なんで? 愛しい人を描くのは画家の定番じゃない?」
雅明はスケッチブックをしまい、携帯灰皿に消した煙草を入れて立ち上がり、にこりと笑った。
「私はこの旅行中に、いっぱい恵美さんを書くつもりなんだ。ずっと我慢してたぐらいなんだ」
「雅明さん」
歩き始めた雅明は、ふいに立ち止まった。
「そろそろ、さんづけを止めようか?」
「え?」
「呼び捨てでいいよ。貴明だってそうだったろ?」
貴明は友達だったからだ。
そう言いたいのに恵美は言えず、雅明と見つめあった。
心は確かに雅明に惹かれていっている。でも、常に圭吾や思い出がそれを止めようとする。名をそのまま呼ぶことは、そのストッパーがひとつまたとれてしまいそうで躊躇われる。
「私は時々呼び捨ててる。恵美さんはそれを怒らないよね?」
「それは……」
人ごみに押されて転びかけ、さっと雅明が恵美を抱きとめてくれる。温かさにほっとするのと同時に、甘く酔いそうになった。
「少しは期待してもいいかなと、思ってたんだけど?」
耳元で囁かれて、恵美は顔を赤くした。
「私……」
止まっていると観光客の波に押されるので、雅明は恵美の手を引いて歩き始めた。しっかりと握られた手が熱く感じる。
どくどくと心臓がうるさい。
言え、言ってしまえと誰かが言う。
「ま……」
名前を呼ぼうとして、恵美は大きく目を見開いた。
懐かしい顔の男が、前から歩いてきて通り過ぎて行ったのだ……。
「!」
ずば抜けた長身に……黒い髪の…………あれは!
その男は人込みにまぎれて、あっという間に消えていく。
「待って!」
「うわ……っ、恵美?」
いきなり走り出した恵美に 雅明が不意をつかれてよろめいた。恵美は構わずさっきの男をさがす。だが、観光客の人ごみの中では、もう誰が誰だかわからない。
恵美は大声で叫んだ。
「圭吾! どこにいったの? 置いていかないで……っ!」
あたりに響く大声に、周囲の観光客は何事かと恵美に振り向く。
「こら恵美、一人で勝手にいなくなるな!」
腕をつかむ雅明に、恵美は言った。
「圭吾がいたの、歩いてたの!」
すると雅明に軽くげんこつされる。
「ばか、あいつは5年も前に死んだんだろ? この間もテレビ観て言ってたけど、いい加減やばいよ?」
「……うん、でも……いたのよ。あの時も、今も」
自分はおかしいのだろうかと、恵美は不安になってきた。
雅明がため息をついた。
「もうパルテノンは止めて帰ろう。タクシーを呼ぶよ、恵美はまだ疲れてるんだ」
「疲れてなんかない! いたのよ確かに」
「疲れてる。死んだ奴が甦ってたまるか」
雅明は機嫌が悪そうに、そうはき捨てる。恵美は、腕を乱暴に引かれてタクシー乗り場まで歩かされ、ホテルに帰るしかなかった……。