天使のマスカレイド 第15話

 キャベツをざくざくと切り、かつおぶしで煮出しただし汁に油揚げと共に入れる。忘れていた塩わかめを冷蔵庫から取り出してボールに少量入れ、流水で塩を流したっぷりの水で戻す。あさつきはうすくうすく輪切りにする……のが千歳は苦手だ。一体どうしたら将貴のように薄く切れるのだろう? 先日、2、3枚のキャベツを、すっすっと包丁を弄んでいるかのように扱って、美しい千切りキャベツを作り出していく将貴に心底ビックリした。千歳が切っても短冊切りの出来損ないにしかならないというのに。

「あれって絶対、大根のかつら剥きが最後まで出来るレベルよね」

 御曹司で料理のりの字も知らなそうなのに、実際の将貴の家事能力のレベルはめちゃくちゃ高い。炊事洗濯掃除はいずれもプロ並みだ。御曹司というのはそこまで完璧を求められるのだろうか。あの佑太もこれぐらいできるのだとしたら……、その妻もきっとハイレベルに違いない。そうでないとやっていられない気がする。

 卵を五個割ってだしと水で溶かした塩を入れてしゃかしゃかと掻き回していると、将貴の部屋の戸が開く音がした。千歳はそれだけで一気に緊張が高まる。昨日の意味不明のキスが蘇り、さらに後ろめたい福沢とのキスが頭を過ぎる。

(ちょっと待ってよ。夜勤明けでしょ。帰ってきたの一時間前でしょ。何でそんなに早く起きるのよっ。いつもは午後になるまで起きないのに)

 何もしていなければ自分の部屋に戻ってやり過ごせるが、火を使っている今はそれは出来ない。そうこうしている間にもキッチンの戸がからりと開き、寝起きにしてはやけに身奇麗な将貴が入ってきた。無視するわけにはいかず、しぶしぶ千歳は将貴に挨拶をして頭を下げた。

「おは……おはようございます」

『おはよう』

 将貴の目の色を見て警戒モードがぐんと高まる。目の色が青から緑になっている。相当怒っているか何かで感情的になっている証拠だ。関わってはいけない。千歳は慌てて卵焼き用のパンを出し、ガスの火をつけた。いくらなんでも火を扱っている人間をどうこうはしないはずだ。すると背後で将貴が大きなため息をもらした。それだけでびくついてしまう根性無しの自分が恨めしい。

 卵が焦げるからと弱火にした途端、後ろから手が伸びてきて強火に変えた。煙が出てきたところで中火に変え、油をひいて馴染ませ、卵液を入れる。そこでようやく千歳は将貴を見上げる度胸が出てきた。将貴の唇が動いた。

『弱火では油が膨らまないし、同時に卵も膨らまない。確かに強火が過ぎたら焦げるけど火加減が肝心だ』

「……は……あ」

『それにこの卵かき混ぜすぎ。そしてかき混ぜた割には空気が入ってない。そんな状態の物を弱火で焼いたりしたら、油ギトギトのまずいべったり卵焼きができてしまう』

「すみません」

『謝る必要はないよ。なんか頑張ってるみたいだから……』

 そこまで言ってなぜか将貴は不機嫌な顔になり、千歳にパンを譲った。そのまま後ろのテーブルの椅子に座り、ふたたびため息をつく。最近の将貴は妙に感情表現が豊かで気になる。会ったばかりの頃のロボットぶりを思い出そうとしてもうまく行かないほどに。

(あー……駄目だ。なんで今日に限って休みなのよ。息が詰まる)

 千歳は内心で毒つきながら菜箸で卵をくるくると巻いた。おそらく福沢の車に乗った事を責められるのだろうなと思う。大体将貴がキスしたりするから注意力が散漫になったのではないかと責めたくもなるが、でもやっぱり福沢の気持ちを適当に思っていた自分が悪く、弁解の余地はない。

(ため息をつきたくなるのはこっちだわ)

 やがて朝食が出来、二人は向かい合って箸を取った。千歳は食事に意識を集中した。焼け付くような視線を顔の辺りにじりじりと感じて焼け焦げそうだが目を上げたら最後だ。きっとあの緑の目に何もかも白状させられてしまう。この時ばかりは将貴の声が出ない病気に感謝だ。声がでたら食事中に尋問されただろう……。

 しかしそうは言っても永遠に食事が続くわけでもない。おまけに今日の将貴は妙に早食いであっという間に平らげ、食器を洗い、麦茶を二人分用意して再び椅子に座った。千歳はまだ半分も食べられていない。

(なんでこんなに今日に限って早食いなのよっ! あー……誰でもいいから遊びに来てくれないかなっ)

 すべて縁を切ったため友人からのメールも訪問もない。親も兄も絶対に連絡して来ない。天涯孤独の自分を思い出して千歳はさらに意気消沈した。

 千歳が朝食を食べてのろのろと食器を洗った後、尋問は始まった。

『篤志には気をつけろと言ったろ。なんで車に乗るかな』

「あの……なんでそんなのわかるんですか?」

 よく考えたら千歳がタクシーに乗ったり、パートの人間の車に送ってもらうという手もあった。将貴がスマートフォンを取り出し、操作してメールの画面を表示させた。そこには「結城さんを送った。ついでに2回もキスした。告白した。彼女は大喜びだった」と、とんでもない内容が表示されている。明らかに福沢のメールだ。なんだこれは!

「これはあきらかな嘘です。私は大喜びなんてしてませんしっ、むしろめっちゃ怒りましたから!!」

 訴えるべきはそこではないのに、焦った千歳はじーっと睨むように自分を見つめている将貴にそう弁明していた。瞬きをひとつして将貴は目を細める。

『……つまり2回キスされて、告白されたんだな?』

「う……っ」

 ここで黙ったら認めてしまう事になるというのに、正直者の千歳は顔を赤くしたまま声を出せなかった。将貴はまた大きなため息をついて、組んでいた腕を組み替えた。

『そんで付き合うの?』

「……いえ、それはありません」

『へえ。あいつはかなりの優良物件だよ。ツラはいいし名門大学出だから頭はとびきりだし、実家は近隣の県をまたいでスーパー50店舗以上を経営している、御曹司様だからな。一人っ子だからゆくゆくは社長様だよ。一生左団扇で暮らせる』

 それは知らなかった。そんなエリートなら、なおさら告白は無視しなければならないと千歳は思う。

『うちの工場……、ひまわりカンパニーはあいつ父親の会社からの出資で建った工場だ。本当ならあいつが工場長になるべきだったのを、どういうわけか俺が経営している。立ち上がったばかりで赤字が続いているけど、それでも潰れないのはあいつの継ぐスーパーの土台骨が頑丈だからだ』

「えっと……、でも将貴さんは管理部の部長さん……ですよね」

 千歳はてっきり傀儡の工場長をしているのだと思っていた。

『そっちをしながら経営もしている。俺は正直経営する気はないから早く篤志が代わってくれればいいと思ってる。だけど一応工場長だからいろんな経営方針や書類決済は必要だろ、皆に知られるわけにもいかないから夜勤で仕事してるんだ』

「……そうでしたか」

 成る程、夜の品質管理室に引っ込んでいたら、工場長の仕事をしているのを見られずに済む。しかしそうじゃないと将貴は言った。

『本来経営と管理は対等でないといけない。そうでないと工場は成り立たない。統括している人間が同一人物というのはマイナスにしかならないよ』

「どうしてですか?」

『どんな会社でもそうさ。そうでないとブランド維持なんて無理。でないと品質低下、しいては業績悪化に繋がる。だから同一人物では都合が悪すぎる』

「実際のところはどうなんですか?」

 今日初めて将貴はくすりと笑った。

『順調だよ。有能な副工場長のおかげで年度末の決算はようやく黒字になりそうだ。だから……』

 将貴は直ぐに笑顔を消し、あの無表情になってしまう。

『あんたが本気なら篤志とつきあえばいい。あいつも今度は本気らしいし……それだけ』

 千歳の心の中にぽかりと穴が空いた。将貴は言うだけ言って立ち上がり、歯を磨くために洗面所へ歩いていく。千歳は目の前に置かれた麦茶のグラスを見つめた。すうとそれらが歪んで、ぽたぽたと手元に涙が落ちる。胸が痛い。

(いちいち傷つかないで私。情けないわね。家政婦業に徹しなさい!!)

 でもその家政婦も打ち切られてしまいそうだ。なんとなくそんな雰囲気が将貴の言葉の端々に滲み出ていた。では一体なぜ将貴はキスなどしたのだろう。なんとなくしたくなったから……だろうか。それ以外考えられなくて、ますます悲しくなる。結局はそういう使い捨ての存在なのだ。

 自分の部屋に戻って戸を閉め、千歳はスマートフォンのランプがちかちか点滅しているのを見た。千歳の番号を知っているのは柳田と佑太だけだ。一体何の呼び出しだろうと見ると柳田だからのメールだった。

Time: 09:10

From: 柳田

Subject: 連絡

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ご苦労様です。工場で倒れたと副工場長の福沢から連絡を受けました。大丈夫ですか? そのつてと言ってはなんですが、そちらの市民病院の内科を受診してください。そして人間ドックを受けると理由をつけて「木野記念総合病院」まで来ていただけないでしょうか。すべてこちらで手配しておきます。そして必ず将貴様をお連れください。将貴様は貴女が検査を受けると言ったら必ずついてきます。詳しい話は当日でないと出来ません、25日の午後1時までに必ず来てください。

「何よこれ。なんだってあんな都心の病院まで人間ドックに……。第一ついてくるわけないじゃない」

 だがもう既に決定事項のようだ。明日あたり受診票や案内書、検査容器などが送られてくるに違いない。多額の借金を返済してくれた相手の指示だから従うしかないが、物のように扱われるのがなんともやるせない気分になる千歳だった。

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