清らかな手 第1部 第11話

 アンネは、ホテルの部屋でボディーガード達に護られながら、乳児を抱いていた。雅明そのものの乳児の顔立ちに、アンネは溺愛としか言いようがないほど愛情を注いでいる。
 黒の剣は崩壊の危機に瀕していた。アンネはトビアスを詰ったがトビアスは何の対策を打たなかったため、部下が一人残らず居なくなってしまった。今彼女を護っているのは、トビアスと、アンネの実家から派遣されてきた男数人だけだった。彼女は子供が4か月を過ぎたら、父親のいるアメリカにトビアスと帰ろうとしている。
「アウグストが居たら、きっと喜んでくれるのに」
 アンネはそう言いながら柔らかいソファに座った。
「安心しろ、今日やってくる……」
 壁に凭れて灰皿に煙草の灰を落としながら、トビアスがほの暗い声で言った。アンネはうれしそうにトビアスに振り向いた。
「本当なの!? アレクサンデルから奪い返せたの?」
「……ああ」
 再び煙草を口にくわえ、トビアスはにやりと笑った。アンネは久しぶりに逢える愛しい雅明の為にとシャワーを浴びに行った。それを見やった後、煙草を灰皿で押し消し、トビアスはホテルの窓から空を仰いだ。青い空に真っ白な雲が広がり、その隙間から太陽の光が放射状に差しこんで、今にも大天使ガブリエルが出てきそうな雰囲気だった。裏の稼業に身を置くトビアスでも、ヨハネ黙示録にある最後の審判を知っている。
「審判……、復活と再生……か」
 そう呟くと、窓からはるか下の道路に停まっている一台の目立たない車に視線を下ろした。そして分厚い緑のビロードのカーテンを引いて部屋を暗くする。 
 
 それは、黒の剣の完全崩壊の合図だった。
 その日、雅明は朝から発熱していた。パウルは雅明の体調を思いアンネ殺害の計画を延期しようとしたが、雅明は絶対に今日すると言って聞かなかった。折角の計画を少しの熱ごときで中断するのは絶対に嫌だった。今日を逃したら、永遠にチャンスが来ないかもしれないという焦りが、雅明を突き動かしている。
 アンネが居るというホテルに向かう最中、雅明の脳裏には車でひき殺されたソルヴェイという妻と、ミハエルという一歳にも満たない息子が浮かんでいた。
(ソルヴェイ、ミハエル、今仇を討ってやるから……、そうしたら私ももうすぐ行くから)
「……フレディ」
 誰にも聞き取れないような吐く息のような小さな声で、雅明は恋人の名前を呼んだ。無事に日本に着いただろうか。弟の貴明は、自分の無言のメッセージを受け取ってくれただろうか。遠く離れていても自分の考えている事が分かるという、不思議な弟。雅明はそれに賭けていた。
 雅明の来ているジャケットの内ポケットには、小型のナイフが入っている。それでアンネと子供を刺し殺すつもりだった。本当は拳銃で撃ちたかったのだが、雅明にはもうトリガーを引く力がない。
「……こんな真昼間に大丈夫なのか、とは聞かないのか?」
 運転しているパウルが、ハンドルを回しながら言った。雅明は前方の信号を眺めたまま小さく笑う。
「お前達の事だから、ばれないようにできるんだろう? どうやってアンネをアレクサンデルの経営しているホテルへ誘い込んだのかは知らないけど」
「知っていたのか?」
「想像しただけだ……。大事な商品の私が警察に逮捕されたら困るのは奴だしな」
 信号が変わり、再び車を発信しながらパウルは苦笑する。
「そんなに金持ちの日本人の下へ行きたいのか?」
「……どのみちあと少しの命だ。何が待っていても驚きやしない。よくこんなやつれた身体の男を買う気になったものだとあきれ返るくらいだ」
「…………」
 雅明をパウルは鋭い眼差しで盗み見た。助手席の雅明は、帽子を目深に被って目を閉じている。パウルはすぐに前方に視線を戻し、目的のホテルの前の道に車を止めた。ややあって、パウルが行くぞと雅明に言い、二人は堂々とホテルの表玄関から侵入した。
 ロビーは賑わっていたが、アンネが泊まっている最上階の廊下は、異様なほどにしんと静まり返っていた。アンネを護っているはずのボディーガードの男達が見当たらないので、雅明は不審げに眉を動かす。その雅明の疑いをパウルは鼻で笑った。
「先に大掃除したのさ。お前の復讐がなしとげやすいように」
「……そうか」
 罠かもしれないと雅明は思ったが、もうここまで来たらどうにもしようがないと覚悟を決めた。どのみち危ない橋を渡っているのだ。一番奥の部屋のドアの鍵をパウルが開け、雅明に先に入るように促した。雅明はやっと復讐ができると思いながら、興奮する一方で氷のような理性を総動員させていた。すばやくナイフをポケットから取り出し、右手に握り締めて薄暗い部屋に侵入した。
 鉄臭い血の臭いが鼻についた。雅明は予想外の濃い血の匂いに驚きながら、部屋をゆっくりと歩く。行けば行くほど血の匂いは濃くなっていく。この部屋で戦闘でもあったのだろうか。
「なっ……!?」
 奥の寝室のベッドに横たわる女を見て唖然とした。あのアンネが身体中をめった刺しにされて全裸で死んでいたのだ。傍に寝ている乳児も、胸を一突きにされて息絶えている。ついさっきやられた様で、二人の血は豪華なベッドを鮮やかな赤に染め上げていく。震える手で雅明は二人の首に手を当てたが、すでに事切れていた。
「こ……れは」
 思わず後ずさりした雅明は、音も気配もなく背後から何者かに抱きしめられて心臓が跳ね返った。その腕からは血が匂い、雅明はこいつが殺したのかと思いながら、慎重に振り向き、今度は心臓が止まるほどの衝撃を受けた。それは雅明がよく知る人物だった。
「トビアス!」
「久しぶりだなアウグスト」
 何故この男がと雅明は思いながら、身体を離そうとして逆に強く抱きこまれた。獰猛な獣のようなトビアスに、雅明は自分がこの男を恐れていた事を思い出して、身体をがたがたと震わせる。味方であるパウルに助けを求め、その美麗な姿を目に留めた時トビアスが言った。
「万事、都合よくいった。感謝するパウル」
「こちらの方こそ、こんな短期間にこうも上手く事が運ぶとは思いませんでしたよ」
 トビアスは混乱している雅明の頬にキスをすると、パウルの方へ突き飛ばした。よろめいた雅明を、パウルがしっかりと抱きしめる。
「ど……いう…………事だ?」
 やっと出せた声は、情けないほど途切れていた。成し遂げようとした復讐が、かつての味方でよく知る人物がしたという事が雅明をひどく動揺させていた。部屋に明るく照明が点き、見覚えのあるアレクサンデルの部下達が入ってきて、アンネと乳児の遺体を運び出して行き、部屋の中を綺麗に清め始める。
「どうもこの部屋は血なまぐさいな。隣へ行こう」
「そうですね」
 雅明はパウルに引っ張られて、隣の部屋へ連れて行かれた。
 トビアスはゆったりとソファに腰を沈め、向かい合わせに座った雅明に、にんまりと笑いかけた。
「私がアンネの実家にイラついていたのは、知っていただろう?」
「…………」
「アンネの父親は、私の持っていた商売の独自ルートが欲しくて、私にアンネを脅迫まがいに押し付けたんだ。そして当時の私はそれに逆らう力はなく、部下を大量に送り込まれて息を潜めるように組織を運営していた。あの女は浮気し放題だった。私は面白くなかったが、寛大であの女を溺愛している男を演じていた……」
 そこまで言うと、トビアスはふふ……と含み笑いをもらして、雅明を見つめた。
「馬鹿にされて黙っている男がいると思うか? 私はずっとあの女を殺す機会を狙っていたんだよ。だがあの女の部下が見張っている以上簡単には動けなかった。焦りを感じていた時に、内密に一つの提案が来たんだ」
「……提案?」
「アレクサンデルが、アウグストという美貌の若者を欲しい、と言っているとね。代わりにアメリカの害虫を退治するのを手伝ってやると」
「っ……!」
 雅明は隣のパウルを見上げた。パウルは無表情なままうなずく。
「俺も先日知ったばかりだ。ハインリヒしか知らない事だった」
 雅明はアレクサンデルに誘拐された時の事を思い出していた。あの時トビアスからの連絡が来なかった事も、館の一室に監禁されていた時に誰も助けに来なかった事も、全ては仕組まれていたという事なのだ。
「フレディ……は…………」
「フレディは知らないよ? 組織の中でも私の腹心しかこの密約の事は知らない。だからあいつの行動にはこっちも面食らったよ。予定外とはあの事でね。お前の弟の佐藤貴明にも参った。だが所詮はちっぽけな島国の世間知らずだ、あっさりと私を信用して帰っていった」
 何故アレクサンデルが父親共々逮捕されながら、直ぐ釈放されたのかようやく納得がいった。いいや、ひょっとすると逮捕すらされていなかったのかもしれない、トビアスがフレディと自分にそう思わせるように、仕組んでいたのかもしれないのだ。
「アウグスト、お前は実にいい部下だったよ。お前が裏切ってくれたおかげでやりやすかった。うざったらしいアンネも子供も殺せたし、組織をもう一度再編する事が楽になった。アンネの父親にお前の犯行と思わせる事ができたからな」
「…………」
 雅明が睨みつけると、トビアスは睨み返すどころかうっとりとした表情を浮かべる。
「そして理想的な奴隷だ。あのまずい味しかしなさそうな弟と違って、お前はどこから食っても美味い」
「貴様……っ!」
「トビアス、そこまでにしてやれ」
 パウルがどこまでも続くトビアスの暴言を止めた。トビアスは肩をすくめて立ち上がったが、ふと思い出したように雅明を見下ろした。
「そうそう、お前は日本へは帰れないよ? 売られる予定だった男は始末した。お前は黒の剣を潰そうとして失敗し、アレクサンデルの顔に泥を塗った男として、ここに一生監禁されるんだ」
「な……んだと」
 目を瞠る雅明の身体を、何故かパウルが強く横から抱きしめる。パウルは事もなげに言った。
「日本でフレディと佐藤貴明、このふたりと合流しようと思っていたようだったな? 買った男の身元はばれている。佐藤貴明の影の部下の一人だろう?」
「お……ま……え!」
 つかみかかろうとした雅明は、そのままパウルに押し倒された。柔らかなソファは、ただでさえ力が出ない雅明を封じ込める。
「さらばだアウグスト。もう会う事はないだろう」
「待て! よくも……っ」
 トビアスは、もがいている雅明をあざ笑いながら出て行った。ドアが閉ざされても雅明は懸命に追いかけようとしている。雅明はトビアスが一番の敵だったことを今悟ったが、全てが遅かった。彼は巧妙に自分の本心を隠し、雅明の良い上司を演じていたのだ……、アンネに良い夫を演じていたように。
 館から雅明が脱走した時、トビアスは、自分のマリオネットぶりがさぞかし片腹痛かったろう。
「待てっ……待て! お前なんか……、離せパウル!」
「あきらめて、大人しく俺の物になれ」
 雅明は死刑宣告を受けたかのように、顔を固く強張らせた。その頬をいとおしむ様にパウルが柔らかく撫でる。その指の熱さが忌々しいのに、雅明の身体は組み伏せられて動けない。
「何故、一体……どういう……」
「このホテルは、俺がボスからもらい受けたものだ。お前と一緒に」
「何を言っているのか……」
「目を背けるな。いいか、お前はこれから死ぬまでこの部屋で暮らすんだ。相手にするのは俺だけになっただけだ。幸せだろう? 面倒な仕事はもうない。俺の腕の中で好きなように生きたらいいんだ」
 これまで見たどんな悪夢よりも恐ろしい夢を、雅明は見ている気がした。夢なら早く覚めろと強く願ったが、パウルが重ねてくる唇の熱さが現実だと言って引き戻してくる。
 長いキスの後、パウルの手が一気に雅明が着ていたものを引き裂いた。それはまるで自分の心のようで、雅明を絶望に突き落とすには十分だった。
 めちゃくちゃな荒々しさで愛撫を受けながら、雅明はパウルの望むままに身体を動かして熱を上げていく。奇妙なもので、心は固くなっていくのに、身体だけは柔らかく熱くなるのだ。
「んん……、あ、やだ、もう……」
 ざらりと胸の先を舐められたり吸われたりすると、身体がびくびくと震える。固く立ち上がった肉棒にパウルの指が絡みついて、嬲るように擦りあげてくる。
「はあ……、ど……して、あっ……ああ!」
「こうやって毎日可愛がってやるよ。俺しかもうお前の目には映らないから、恥じ入る事はない」
 荒い息まじりにパウルが言う。官能に飲み込まれたくないと雅明が圧し掛かるパウルを押しのけようとしても、衣擦れの音がするだけで何も変わらない。ぴちゃぴちゃと自分の肌を攻める舌の音にさえ感じている自分が、ひたすら忌々しい。
「や……っだ! 私は、私は帰るんだ! あああっ……は……んっ……あっあっ……! だれか……来て……やだ! く……」
 はちきれんばかりの肉棒の先に爪をねじ込まれて、雅明の身体に快感が駆け巡り、それに耐えるために身体を細かく震わせた。苦しげに歪む美しい顔が、パウルの嗜虐性を高めていく。程なくして雅明は達した。魚のように跳ね上がる身体をパウルが再び抱きしめて絡みつく。
 浅い息を繰り返す雅明は、毒蜘蛛の糸に巻かれて動けなくなった蝶だった。先ほどから太ももに当たる固く熱いものが、自分を欲して止まない事を訴えてくる。雅明は銀色の睫を震わせて涙を零した。
「誰も来ないさ……。あのうっとうしいフレディは日本へ追いやったしな。……は……、お前の弟もこんな離れた場所にいるお前をどうこうできない。俺達の組織は……強大なんだ、あり一匹入り込めやしない」
 残酷な言葉を粘りつくような声で言いながら、パウルは雅明の吐き出したものを潤滑油に、アヌスへ指を押し込んでいく。快感の源を擦られて、雅明はまた身体を跳ね上がらせた。
「や……! 触るなっ……あうっ……う……あ、くう……く……ん……ああああっ!」
「もう他の男には触らせない。ここも、お前の肌も、髪の毛先まで俺のものなんだ」
「離せっ……やだっ……、私は帰る! ……帰らせてっ……あ、あ、んんん……っ、いや!」
 パウルは指を抜くと、雅明を押さえつけながら手早く服を脱ぎ、雅明の身体に引っかかっている服とはもう言えない布切れをすべて剥ぎ取った。そして、雅明が逃れようと身体を反転させて四つん這いになったところを捕まえ、その細い腰を抱えて深く容赦なく貫いた。
「あああ……あーっ……!」
 それは正しく捕食された草食動物のような鳴き声で、パウルはぞくぞくとした。まったくこの男は性奴隷になるために生まれてきたような男だと、乾いた唇を舐める。
 めちゃくちゃに抜き差しされて、がくがくと白い身体が揺れる。もうこの美しい獣は自分のものだと、雅明の嘆きや苦しみすらもパウルにとっては悦楽だった。
「やめ…………ああっ……おねが……っ……ああっああっ……うあ……っ」
 パウルは雅明の小さな胸の先をぐりぐりと押しつぶすと、力任せにひねった。
「ぎっ…………う……ぐ……う、う……」
 痛みと快感に耐えかねている雅明の横顔を、パウルは後ろから舐めた。涙が流れていた頬は塩気が混ざっている。だが、やはり甘い。今度は優しく肉棒をさすってやると、締め付けていたものがゆるんだ。
「んんっんんっ……は……」
「気持ちいいだろう? お前は淫乱だからな」
 激しく擦りたてて、また蜜があふれ出してくる感触にパウルは陶然としながら、腕の中で泣いている哀れな男を嬲って楽しむ。
「好きだ、愛している、アウグスト」
「帰りたい……くう……は! 帰り……あ、フレディ……、誰か……」
 パウルは顔を歪めると、他の男を思って泣いている雅明に腰を打ち付け、その汗ばんだ身体をまた執拗に愛撫していく。
「俺のものだ。アウグスト」
 雅明は直接中に放たれて、もう駄目だと全身の力を抜いた。それを感じ取ったパウルは雅明を広い大理石でできたバスルームへ連れ込み、中のものを掻き出しながらまた雅明をいたぶりだした。
「あ……ん、ん……」
「いいだろう? 良いと言え」
「……は……ん」
 虹色を帯びた美しい瞳がパウルをぼんやりと見つめる。雅明が発散する淫気に飲み込まれ、パウルは背後から雅明を抱きこんで再び貫いた。シャワーの湯ががタイルを叩き、湯気がもうもうと立つ中彼を犯していく。
 聞こえるのは、愉悦を訴える雅明の泣き声と、パウルの荒い息、淫らな水音と清らかな音。
 
 雅明は鏡に映る自分を見て、目を閉じた。自分はこれからこういう毎日を送るのだ……。
 
(もう疲れた、…………楽になりたい……)
 新たな涙が溢れ、暗闇が支配する雅明の心の奥で輝いていたものが急速に輝きを失い、すうっと音もなく消えていった。
 かつての家族の仇は討てなかった。
 日本へ帰る望みもない。
 フレディに逢う事もできない……。
(皆、さようなら……。私はここまでしかできなかったよ)
 雅明はパウルに捕まっていた腕をだらりと下げて、力なく前のめりに倒れていく。
「アウグスト!?」
 パウルが驚いて雅明の顔を覗き込んだが、雅明は目を閉じてなんの反応も返さなかった。
 白い闇だけが広がっていく……。苦しみも悲しみもない代わりに、喜びも微笑みもない世界だけが。 

Posted by 斉藤杏奈