あとひとつのキーワード 第12話

あとひとつのキーワード


 半年に渡る苦しいリハビリが終わる頃、季節は梅雨に入っていた。
 靖則はほぼ毎日私のリハビリに付き添い、来るなと言っても頑として言うことを聞かなかった。看護師やリハビリのトレーナー達よりも甲斐甲斐しく私の世話をする姿は人目について噂を呼び、沙彩がその様子を見に来るほど、この病院の名物になっていた。
 婚約者である自分を裏切り、妹の婚約者を取ろうとした姉に、これ以上はないほどの誠実さを捧げる美しい青年……と。

「素晴らしいわね。どう見ても恋人同士じゃない」
 リハビリを終えて病室に戻ると沙彩に出迎えられた。今日はリハビリ中、沙彩が嫌に付き添ってきて、靖則一人でもうっとうしいのに、迷惑極まりなかった。それでも周囲は姉思いの妹だと感心しているのだから、この女の化けっぷりも大したものだ。入院初日と最終日にしか来ない妹の、何が姉思いなものか。
 私は杖を突きながら一瞥をくれ、ベッドに腰掛けた。靖則は明日の退院の手続きをしに行っている。
「もう会うことはないとか言ってなかったかしら?」
「ふふふ。そのつもりだったのだけれど、親切な私は良いものを見せてあげようと思ってわざわざ来てあげたのよ。感謝してよね」
 なんとなく予想がついた。案の定、沙彩が手渡してきたのは、真嗣さんと沙彩の結婚式のアルバムだった。
「綺麗でしょう? おまけにこんなに参列者が居て、大変な賑わいだったの。貴女だったらこうはいかなかったんじゃないかしらね?」
 私は鼻で笑い、そのアルバムを花が生けられている花瓶に投げつけた。花瓶は床に落ちて砕け散り、花と水をぶち撒け、アルバムはその上に落ちて水に濡れた。
「何をするのよ!」
「合成写真かと思ったわ。真嗣さんがこんな趣味の悪いドレスの花嫁を喜ぶわけがないから」
 怒る沙彩にそう言い返すと、いつかと同じ平手打ちを食らった。
「生意気な!」
 沙彩は、割れた花瓶の上へ私を突き飛ばした。
「貴女みたいな馬鹿で野蛮な女に、私を蔑む資格などないわ! 身の程を知りなさい!」
 その瞬間、私の脳裏に一つの映像が浮かび上がった。

 同じように打たれて倒れているのは、ジョセフィーヌである私。
 打ったのは美しい貴族の令嬢……おそらくは、ううん、間違いない、前世の沙彩だ。
 私は雪が降る中、王宮の庭先に突き飛ばされた。魔法で防御すればいいのに何もできないまま、貴族の令嬢であるレイナルド王子の婚約者、ソフィアを見上げる。
「お前などをレイナルド様が妃にお迎えになると、本当に思っているわけ? 天地がひっくり返ってもそんなの有り得ないわ」
 立ち上がろうとして、何故か立ち上がれない。魔力を封じられたかのように私は動けない。周辺の雪が溶け、みるみる私のドレスは泥と冷たい水に染まっていく。
 それでも私は言った。
「いいえ、いいえ。王子はおっしゃいました。私を必ず妃に迎えると。貴女は選ばないと」
 ソフィアは扇で口元を隠しながら、上品に笑った。
「ほほほ! それを真に受けてお前はここにのこのこ来たのね。お馬鹿さん? 私を殺そうと考えていたのかしら?」
「そんなことは……!」
「もちろんしないわよね。王子がお許しになるはずがないもの。捨て駒のお前に私を殺させるなど」
「私は捨て駒などではありません。だって、王子は私を……」
 ごうと風が吹き、近くにの木々の枝に積もっていた雪が、冷たく私の全身に降ってきた。溶けかかっているそれは泥まみれの私を上から濡らし、全身を凍えるような冷たさで染めていく。
 ソフィアは扇を閉じた。
「あのお方は、利用できるものはなんでも利用されるの。そのためにはご自分の身体さえも利用されるわ。お前みたいに頭の弱い魔女を自由自在に操るためにね。……罪な方」
「違います!」
「違わないわ。私などもうすでに何度も何度も、お前以上に昼も夜も抱かれているわ。お前も知っているでしょう? あの方の足の付け根にほくろが2つあることを」
 肉体関係を示唆したソフィアに、私は驚き、目を瞠る。
 王子は言った。私にしかこんなことはしないと────。
 吹雪いてきた雪が私の全身を叩く。
 足音がして、誰かが私の前に立ちはだかった。ソフィアから護るように。
「ソフィア様。この者は仮にも王子の専属の魔法使いです。このような振る舞いは許されません」
「この女に身の程を知らしめただけよ」
 動けなかった身体が突然自由になり、ソフィアの背後からレイナルド王子が現れた。
「こんなところに居たのか二人共。パザン大佐、ジョゼを部屋へ連れて行ってやってくれ」
「承知しました」
 目の前の男────、パザン大佐が泥まみれの私をふわりと抱き上げると、ソフィアがそれを見て笑った。
「まあ。下賤なもの同士でお似合いなこと」
 パザン大佐は部屋へ入ると、ソフィアとレイナルド王子の前を私を抱いたまま突っ切り、廊下へ出た。王宮とはいえ奥まった秘密の場所なのか、響くのはパザン大佐の足音だけだ。
 王子に部屋へ送って欲しかった私は、ソフィアに嫉妬を覚えていた。
「……私など放っておけば宜しかったのに」
「そうはいきません。あとで王子にお叱りを受けます」
 二人は一瞬黙った。ソフィアが言った、自分は捨て駒だという台詞がそうさせた。どこから聞いていたのか、パザン大佐が言った。
「ソフィア嬢の言葉などより、王子の方を信じなさい」
「……ええ」
 思い出した。
 パザン大佐は確か、孤児院から伯爵家に迎えられた養子で、出生は娼婦の子供だともっぱらの噂だった。魔力の高さだけを求められたのだと聞いている……。

 そこで私は我に返った。
 沙彩は私を床へ突き飛ばして意趣返しができたのか、満足そうに笑った。
「そのアルバムは貴女にあげるわ。破くなり燃やすなりしてくれて結構よ」
「そんな手間をかけないわ」
 ちりとした痛みが走り、見ると手のひらに花瓶の破片が突き刺さって出血していた。掃除をしなければと思っていると、見回りの看護師が来て、部屋の惨状に呆気にとられた顔をした。
「まあ、何があったんですか?」
 すると沙彩がしおらしい顔をした。
「私の結婚式のお写真を見たいって言うから、アルバムを持ってきたら……」
 看護師は私を睨みつけた。
「何てことなさるんですか! 祝って差し上げるのが普通のお姉さんでしょう? 婚約者の榊原さんがあんなに来てくださってるっていうのに……」
「いえ。私が悪いんです。姉の気持ちを考えもせずに」
「北山さん、お人が良すぎますよ。この人は貴女の結婚相手を取ろうとしたんですよ。お見舞いだって来てくださる必要なんてありませんのに。アルバムだってこんなにされて……!」
「でも……」
「ここは私共が掃除しますので。本当にすみません。もっと早く巡回に来ていれば良かったんですけれど」
「あ、掃除は私が……」
 するつもりがないくせに、沙彩は箒を取ろうとする。もちろん看護師は渡したりしない。
「とんでもありません。北山様の奥様にしていただくなんて」
 白々しい芝居を聞きながら私は立ち上がり、手のひらに刺さった破片を引き抜いた。鮮血が流れ落ちていくのを見て、沙彩が、きゃあ! と驚いた声を上げる。看護師は破片の始末をしていて気づかない。そのまま、持っていたハンカチで傷口を握って塞いだ。
「後は私共におまかせを」
 看護師はそう言って沙彩を帰らせると、ぶつぶつ文句を言いながら掃除を始めた。
「倉橋さん。ちょっとは妹さんの気持ちも考えて差し上げたらいかがです? 私達もヒマじゃないんですよ。余計な仕事を増やさないでください。せっかく明日退院だってのに……、最後の最後まで面倒をかけてくださいますね」
 私はアルバムを拾い上げ、ゴミ箱に捨てた。それを見てさらに看護師は呆れた。
「……本当に、榊原さんがお気の毒ですね」
 知ったことか。
 私はそう思いながら水に濡れ破片が付いた服を脱ぎ、それもゴミ箱に捨てた。何もなかったかのように違う服に袖を通す私に、看護師はさらに呆れて目を丸くしている。
 沙彩は私に恥をかかせて、さぞ今は愉快な気分で居ることだろう。
 靖則が部屋へ戻ってきた。看護師が事情を説明すると、靖則は看護師に頭を下げて掃除を請け負い、看護師は部屋を出ていった。
 靖則は私をベッドへ座らせた。
「元気になった途端に反抗するんですね、貴女は」
「我慢しないことにしたのよ」
「それでこのざまですか」
 看護師が見逃した手のひらの傷を靖則はいち早く見抜いていて、ハンカチを取り去り、部屋に常備してある薬箱から消毒液を浸した綿を手にして、丁寧に傷を消毒していく。ひりひりと痛い。今頃になって痛みを感じる私はおかしい。きっと、沙彩の前では人間らしい感情を殺しているからだろう。

 それにしても、さっきのあれは一体なんだろう。
 ジョセフィーヌはソフィアに対して魔法が使えないようだった。そんなジョセフィーヌが、彼女を陥れることなんてできたのだろうか。また、レイナルド王子からも危害を加えることを禁止され、本人もそれを守っているようだった。
 靖則に見せられた映像と違う。
 ……どちらが正しいのだろう。