あとひとつのキーワード 第14話

 そして私は、今の状況下にあるわけだ。
 沙彩のシナリオ通り、今日も真嗣さんの会社で白い目で見られながら、仕事をしている。
 午後から雨が降るのだろうか。パソコンでキーを叩きつつ、左足の痛みを感じた。人によるけれど、発狂しそうなほど痛い人も居るらしい。私は痛いことは痛いのだけれど、私の場合ははどこか感情が欠落しているせいで、本当に感じなければならない部分が、痛みを感じないようにさせている。昔からそうで、あまり感情が動かない私を、母が酷く心配していた。
「もうお昼よ。あんた、昼食抜きなの?」
 相変わらずひなりが構ってくる。本当に何なんだろこの女。他の二人みたいに遠巻きに観察しないで、思いっきり近くで観察してくるし。突き放しても引っ付いてくる。
「今から取るところよ」
「あっそ。じゃあ、外で一緒に取りましょうよ」
「……は?」
「は、じゃないわ。話があるの」
 ひなりはバッグを持って、さっさと支度しろと促す。お昼の休憩は1時間しか無い。仕方なく机の引き出しから自分のバッグを持ち、ひなりの後に続いた。

 ひなりが連れてきてくれたのは、会社からそんなに離れていない場所にある、古ぼけたビルの中にある食堂だった。ちらほらうちの社員たちが居て、有名人の私が入ってきたのを見て、ひそひそと何かを囁きあった。
 満席だったのに、ひなりが予約していたのか食堂の隅にちょうど2席空いており、そこに落ち着く。私は親子丼を、ひなりはAランチ定食というものを頼んだ。日によって内容が変わるらしく、結構なボリュームなのを店の入口を通り過ぎる時に、置かれていた日替わりメニューの見本で見た。
「で、話って何よ?」
「あんたの婚約者の榊原靖則について、よ」
 驚いた私を見て、ひなりはくすりと笑った。がやがやうるさい店内で、聞き耳を立てる人なんて誰も居ない。先程私達を見た社員たちも、もう各々のおしゃべりや食事に夢中だ。
「靖則とは幼馴染なのよ。筒抜けってわけ」
「婚約にしろ同棲にしろ、あの沙彩ですら特に広めているふうでもなかったのに、そんなふうに親しい幼馴染もいたものね」
「まあね」
 ひなりは水を飲み、ため息をやたらと深くついた。
「靖則、しばらくあんたんとこ、行かないわよ」
「……あんたとよりでも戻したわけ?」
 とんでもなくまずいものを口にしたかのように、ひなりは顔を歪めた。珍しくて思わず笑ってしまった。
「あいつと私はそんな仲じゃないわよ。冗談でも言わないでちょうだい。あんたの笑顔を見るのはやぶさかではないけどね」
 今度は反対に私が同じように顔を歪めたので、お返しと言わんばかりにひなりが笑った。
 そこへ親子丼とAランチが来た。
 期待していたほどおいしくはない。かといってまずくもない。ごくごく普通の味だ。値段も普通だからまあいいか。懐がさほど痛まないから、繁盛している食堂なんだろう。

 しばらく食べる方に意識を集中し、残りが僅かになってきた頃、ひなりが再び話しかけてきた。
「あいつとは大学まで同じなのよ。だから沙彩のこともよっく知ってるわけ。あんた、靖則のことほとんど知らないでしょ? あいつも話さないだろうし」
「……どっかの会社のオーナーで、沙彩の家に資金調達してもらって逆らえないというのは知ってるわ」
「そうよ。その会社は、靖則の義理の父親のものなの」
「義理の父親?」
「そ、あいつの本当の父親はとっくの昔に病気で亡くなってる。親戚にたらい回しにされて孤児院へ入れかけられているところを、父親の親友だった義理の父親に引き取ってもらったのよ」
 靖則も結構複雑な家庭環境なようだ。
「その義理の父親という人は……」
「最悪な人間よ。靖則の父親が弁護士に託していた靖則への遺産を、どうやったのか知らないけど皆自分のものにして、食いつぶしたのよ」
 何も言えないでいる私に、ひなりは箸を置いて続けた。
「あげく虐待を受け続けててね。見るに見かねてうちの両親がなんども児童相談所へ通報した。でもあのクソ男、うまいこと言って靖則を連れ戻すのよ。その繰り返し。そうしたらなんと、児童相談所の職員とツウツツだったの。実の両親が健在だった頃の靖則は、素直で明るい奴だったし、表情も豊かだったけど、そんなわけで今みたいな無表情で皮肉屋で、何考えてるのかわからない男になってしまったの」
 なんとも後味の悪い話で、残りを食べるのに苦労した。お茶を飲む私にひなりはさらに続ける。
「あいつが大学生の時、クソ男の会社が倒産の危機に陥ったの。あんなクソ男の経営でなかなか潰れなかったのは、とある一人の役員のおかげだったというのに、クソ男のやつがその人を追い出したの。そこへあの沙彩母娘の登場よ。あの母娘がクソ男より遥かに悪党だったってわけ」
「ふうん」
 悪党が悪党を呼んだってわけか。聞いていると靖則も随分可哀想だな。私にしていることは鬼畜そのものだけどね……。普通、そんな目に遭ったら、同じことはしないと思うけど、そこいらへんは人間の出来の問題なんだろう。
「で、靖則の生い立ちと、靖則が私の家へ来ないのと、どう関係があるわけ?」
「先日、クソ男が脳梗塞で亡くなったのよ」
「…………で?」
「あいつはもう自由なの。会社を潰す気で居るわ。だから、当分あんたのところには行かないわけ」
「そう。それは光栄なことね」
「……このまま、消えてしまうかもしれない」
「は?」
 何を言ってるんだろうか。ひなりは妙に辛そうに伏し目になり、唇を噛み締めた。
「靖則は、何もかも自分で抱え込んで解決する男よ。でもなんらかの事情でクソ男に拘束されて動けなかった。でも死んでしまった。そうしたら……、そうしたら」
 そうしたら何だと言うんだろう。
 何が言いたいんだかさっぱりだ。靖則の気の毒な過去を聞いて、私が靖則を見直して愛するとでも思ったんだろうか。
「もう時間切れね」
 腕時計を見ながら言うと、ひなりははっとして顔を上げた。
 代金を払い、店の外に出る。通りかかった公園では蝉がうるさい。
 歩きながらひなりが言った。
「靖則は、あんたを愛してるわ」
「そんなわけないでしょ」
 呆れ返って言うと、ひなりは首を激しく左右に振った。
「あんたが知らないだけよ。そうね、あんたも靖則にも勝る不幸な生い立ちだし、境遇だし。それでもあんたは靖則に守られてるのよ。生まれた時からずっと。そうなのよ? ジョゼ」
 いきなり前世の名前を言われて面食らった。
 ひなりも前世関係者なわけ?
「……貴女は誰だったのよ?」
「言いたいけど言えないの。そういう魔法をかけられてるから、レイナルド王子に」
 立ち止まると、ひなりも立ち止まった。
 ひなりは、太陽を遮っている緑の木々を見上げた。
「前世のあんたは美しい魔女だった。誰も彼も魅了するからレイナルド王子が自分のものにした。あの沙彩の前世の……ソフィアという令嬢を婚約者に持ちながら」
 そう言うひなりが、誰かに重なりかけて消える。
 ひなりは腕をのばして、枝から緑の葉を一枚千切り、はらはらと落としていく。
「ジョセフィーヌの価値なんて、この葉っぱ一枚ぐらい軽いものだった。誰も大した存在に思ってなかった。レイナルド王子も、パザン大佐も。だけど、違ってた」
「違う?」
「ジョセフィーヌは純粋すぎて、誰よりも汚れなき綺麗な目で……」
 言いかけて言葉をふつと切り、ひなりは頭が痛むのか額を右手で抑えて俯いた。
「愛してたのよ、二人とも。ジョセフィーヌを」
 それでもジョゼは、二人に殺された。
 どうしてなんだろう。

 蝉の鳴き声が遠くになる。
 蒸し暑い風が吹いて、汗が滲む。早く涼しい社内へ帰ろうと思って歩き始めた時、木々の向こう側に真嗣さんの後ろ姿がちょっと遠くに見えた。会社から出てきたところなんだろう。
 会社じゃない。
 どくんと胸が痛み、心が叫び出す。
 今なら誰も居ない、沙彩も、靖則も。
 もう結婚したいなんて言って困らせない。ただ、声が聞きたい。今なら会社の人だって居ない……!
 そう思って、小走りに駆け寄ろうとした時、聞きたくない女の声がした。
「真嗣ってば遅いわ」
 沙彩だ。
「ひどいな、これでも時間を作ってきたんだよ」
 変わらない真嗣さんの優しい声。あんな女にはふさわしくないのに。
「だってこうやって会わないと、あの馬鹿な女がまた勘違いしそうになるじゃないの。貴方に心底いかれちゃってたじゃない」
 馬鹿な女とは私のことだ。木の陰で聞いていると、ひなりが追いついてきて、私の腕を強く引いた。腕時計を指している。もう午後の仕事が始まっている。
 言われなくても、二人で一緒に居るところなど見たくない。
 そう足を会社へ向けた時だった。
「おかげで私は賭けに負けて、あのダイヤの指輪は君のものになる始末だ」
「うふふふ。貴方の見通しが甘すぎるのよ。あと自分の魅力に気づかなかったせいよ。貴方みたいな人にやさしくされたら、思い上がるのも無理ないわ。面白かったわあ……必死に貴方にすがりつくあの情けない顔ったら! ふふ。馬鹿みたい。賭けにされてるとも知らず、身代わりにされてるとも知らず。ふっふふふ!」
 賭け?
 何? 何のこと?
 聞いた言葉が信じられなくて、足が動かない。ひなりが怪訝に私を見つめ、背後の二人に目をやり、瞠った。
 真嗣さんがやれやれと言わんばかりに、肩を竦めた。
「正直、病院では参ったよ。いきなり結婚してくれだもの。沙彩が来てくれなかったらどうしたら良いのかわらなくて。君も早く登場してくれなくちゃ」
「だって、面白かったんだもの。貴方を信じ切っちゃって! あはははは」
 沙彩は楽しそうに笑って真嗣さんの左腕にしがみつき、そこで木の向こう側から見える私に初めて気がついたようで、今度は意地悪げに笑った。
「やあだ。ストーカーなんて止めてくれる? 気持ち悪い」
 私は今どんな顔色をしているんだろうか。
 真嗣さんが振り向き、私に気づき、バツが悪そうに笑う。
 初めて見る、退廃的で人を馬鹿にする嫌な目つきだ。
 嘘だ。
 こんなの嘘だ。
「さ、こんなストーカー女放っといて、早く劇を観に行きましょう? そのために仕事を早く終えたんでしょ?」
 沙彩が甘えた声で良い、真嗣さんは私がいなかったかのようにそのまま向こう側へ歩いていく。
 遠くなっていた蝉の声が、なぜか響かない。

 私は一体何者なんだろう。
 私が手に入れようとするものはいつも、幻のように消えてしまう。
 どうしてなんだろう。
 気づいたら涙が頬を伝わって、ぽたぽたと芝生の上へ落ちていた。
 泣いたら負けだ。
 そう、私は負けたんだ。
 沙彩に、真嗣さんに、靖則に。
 頭が悪くて、性格も悪い私だから負けたって仕方ない。
 己を知らないからこうなる。
 馬鹿の見本のような私だ。

 ひなりがぎゅっと右手を握ってきた。涙を流しながら見ると、ひなりは辛そうに言った。
「あんたがすべてを思い出したら、絶対に幸せになれるのよ」
「……そう、沙彩に言えと言われたの?」
 真嗣さんと同じように。
 するとひなりは目を尖らせた。
「言われたわよ! でも、あの北山真嗣と一緒にしないで! 私はあんたが好きだし靖則も好きだもの! だから幸せになってほしいのよ!」
 涙はまだ止まらない。
 何を言ってるんだこの女。
 幼馴染びいきもいい加減にして欲しい。
 睨みつけたら、睨み返され、おまけに左の頬を打たれた。
 いい加減にして欲しい。どいつもこいつも私をサンドバックか何かと勘違いしてない? 怒鳴ろうとしてそれをしなかったのは、ひなりも泣き出したからだ。
「今日限りで不幸なヒロインは終わりにしてちょうだい。いくら馬鹿なあんたでも、そろそろ限界が来ても良い頃よ!」
 前世で誰かと重なる。
 ああ……、ひなりは────だ。
 なのに、せっかく思い出した記憶は、すぐに消えてしまった。

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