ディフィールの銀の鏡 第25話

 空き巣は近所に住む無職の中年男だった。一人暮らしの家を狙って空き巣を繰り返していたらしい。母の形見と預金が戻ってきた万梨亜は本当にほっとした。これでなんとか、ジュリオのマンションの部屋に居候する生活とはおさらばできそうだ。恋人でもないのに同棲させてもらったり、食事の面倒を見てもらうのはやはり気が引ける。

 警察を出た万梨亜は、銀行へ新しい通帳を作りに行った。昼間の銀行は混んでいてかなり待たされたが、何十分か待った後、やっと若い銀行員の男が個人用のブースへ万梨亜を呼んだ。どう見ても上役そうな銀行員だったが、混んでいるから総出で手伝うのだろうと万梨亜は思いながら個人ブースの椅子に座った。何故か名刺を手渡されたので見ると、このイオバンク銀行の個人窓口担当の係長で、大島玲(おおしまれい)とあった。

「混んでおりまして、お待たせしました」

「いえ、こんな日に新規に申し込みに来てしまってすみません」

「とんでもない。お客様がいらっしゃらないと成り立ちませんから」

 大島という男は、新しい通帳を万梨亜に渡しながら微笑んだ。凛々しい顔つきの誠実そうな男で好感が持てたが、顔が良くても意地の悪い佐原に会った後なので、警戒混じりの好感で、万梨亜はそんな自分を情けなく思った。だが仕方がない。長年そういう悪意のある人間と接していると、いつも心の奥底に疑いの目を持っていないければ、裏切られた時の失望が半端ない。

 通帳を確認しようと手を伸ばした時、大島が戸惑いがちに言った。

「あの、戸田さんは……カワサキハウスにお勤めの方ですよね」

 ぴしり、と万梨亜の心にひびが入った。ここにもいる、惨めな自分をさらに惨めにしようとする人間が。万梨亜は無言でさっと立ち上がり、そのままブースを飛び出した。背後で大島の声が聞こえ、銀行内の人間が万梨亜に振り返ったが、そのまま外へ出てさらに万梨亜は走った。

「あっ」

 万梨亜はアーケードに躓いて転んだ。荒い息をつきながら膝を見ると、ストッキングが破れて血が流れていた。そこまできて冷静さが戻り、何も自分を知っている人間がいるだけで逃げ出さなくても良かったと思いながら、バッグからハンカチを取り出して膝に巻いた。とりあえず会社に着くまでこうしているしかないだろう。

「戸田さん、通帳をお忘れです」

「あ……」

 見上げた万梨亜の目に、後を追いかけてきた大島が通帳を手に立っていた。

「すみません、私ったら……」

「いえ、突然私事を言った私も悪かったんです、それより」

 大島は万梨亜の膝の怪我を見て眉を顰めた。そして少し向こうの小さな店舗を目線で示しながら、万梨亜に手を差し出した。

「そこの喫茶店、親の知り合いがやってるんです。そこで足の消毒をしましょう。化膿するといけませんから、ね? その人は年配の女性ですから気にしないで」

「はい…………」

 大島はじろじろ見る通行人の目から万梨亜を守るように肩に手を回し、白いイタリア風のレンガ造りの喫茶店のドアを開けた。中もイタリア風で開放的な造りになっていて、テラスがあったら日本にいる事を忘れてしまいそうな独特の雰囲気があった。

「こんにちは」

 大島が挨拶をすると、カウンターで紅茶を入れていた総白髪の女性が顔を上げた。皺の多い顔に少し派手な化粧だが、この女性には良く似合っていた。顔つきが西欧人のようでハーフなのかもしれない。

「あら大島君いらっしゃい。めずらしく女の子連れてるけど今お仕事中じゃないの?」

「お客様なんです。そこのアーケードで怪我をされて……」

「あらまあ大変。ちょっとこっちいらっしゃい」

 店主と思われるその年配の女性は、ウェイトレスをしている中年の女性に店を任せて、万梨亜を店の奥のプライベートな部屋に招き入れてくれた。

「これはひどいわね。痛いでしょう」

 ハンカチをとった女性が痛ましそうに言った。

「そこのアーケード、結構躓く人が多くてね。古くなってるからだと思うけど気をつけてね」

 万梨亜はその優しい口調と手当ての丁寧さに、心の底がぽっと温かくなった。感じがアパートの大家さんに似ている。怪我にガーゼを当てた後、包帯を巻いてもらった万梨亜は、ありがとうございますと礼を言った。

「いいのよ。怪我人を見たら手当てするのが当たり前よ。私は飯田佐代子、あなたは?」

「戸田万梨亜です、本当に助かりました」

「そう思うんなら、店にまた紅茶飲みに来てね。自分で言うのもなんだけどおいしいのよ?」

「そうさせていただきます」

 コンコンとドアがノックされ、店番をまかされたウェイトレスの声がした。

「ばあちゃん、伊田さん来てるよ」

「おっと、お得意様」

 慌てたように佐代子は腰をあげた。

「ごめん、ちょっとあけるわ。後でとっておきのミルクティー持ってくるからね」

「あの、もうお暇しますから……」

「そう言わずに。大島君も話したい事があるだろうから」

 それこそ万梨亜は困る。カワサキハウスでの知り合いなどもういらないのだから。だが大島はドアの外で待っていたらしく、佐代子が出て行くのと同時に部屋に入ってきた。

「もう大丈夫みたいだね」

「……ありがとうございました。私、これで」

「戸田さん」

 ドアを開けようとする万梨亜の手を、大島が取って引き止めた。万梨亜がどきりとして身体をびくつかせたのが分かったのか、大島は手をすぐに離した。

「すみません、あの、怖がらせるつもりはないんです。ただ、戸田さんとお話がしたいと思って……」

「私にはありません。通帳を届けてくださってありがとうございます」

「戸田さん」

 大島は優しい中に凛々しさがある、不思議な感じの笑みを浮かべた。ジュリオと並ぶほど整った容貌をしていて、おそらく女性に人気がある男性だろう。窓口の係長などをしているが、着ている物がブランドスーツだ。おそらくあの銀行関係の御曹司ではないかと万梨亜は思った。もうそういう関係の男はこりごりだと思っているので、早く部屋を出て会社へ帰りたい。

「まだ私も仕事中なんです。大島さんもそうでしょう?」

「ええ、ですが、少しくらいお茶を飲んでもばちは当たらないと思います」

 そこへ佐代子が紅茶を運んできた。

「仲良く話してる? 万梨亜ちゃん、この大島君はもてるけど女が苦手な、いまどき珍しい堅物よ。ちょっとつきあってみたら?」

 とんでもない事を言われ、万梨亜は首を大きく横に振る。

「わ、私は誰とも付き合う気もありませんし、大島さんに迷惑ですよっ」

 同意を求めて大島を見たが、大島は望む言葉を言ってくれなかった。

「迷惑じゃないよ。俺は……戸田さんとつきあいたい。恋人になりたい」

「困ります……。第一私は大島さんの事知りませんし、大島さんだって私の事よく知らないじゃないですか。そんなのおかしいです」

「これから知り合いましょう? そんな付き合いはじめだってある」

 佐代子に何とかして欲しいと万梨亜は視線を動かしたが、もういない。万梨亜は大島に壁際へ追い詰められ、動けなくなってしまった。

「お願いだから、話を聞いて」

 もう嫌だと万梨亜は再び首を横に振る。苛めゲームの標的はもう真っ平だ。この人も自分を切り刻んで苛めるのだろう。

「戸田さん……」

 大島が万梨亜の左の頬を撫でた時、ドアがノックする音がした。

「万梨亜、いる?」

「は……い」

 万梨亜の返答にドアを開けたのは、瞳の底に怒りのようなものを湛えたジュリオだった。大島は万梨亜から離れると、ジュリオと同じような目つきで彼を睨んだ。しかし、下に俯いている万梨亜には二人が火花を散らしている様子は見えなかった。

「中々帰ってこないから迎えに来た。午後の仕事をサボる気か?」

「そんなつもりは……」

 万梨亜の代わりに、大島が言った。

「怪我をされたんで、治療させていただいてたんです。戸田さんのせいではありません」

「……確か、イオバンクの社長令息でいらっしゃる方ですね。こんな所で油を売っている暇はないのではありませんか?」

 常に無いジュリオの棘のある言い方に、万梨亜は縮みあがった。時計を見ると昼の十四時二十分で、瑛の休憩時間はとっくに過ぎている。万梨亜が早く帰らないと皆困るだろう。

 俯いている万梨亜の肩に、大島が庇う様に大きな手を添えた。ジュリオの眉がつり上がる。

「通帳をお忘れになったので届けに来たんですよ。そしたら戸田さんがアーケードで転ばれて怪我をされていたので、知り合いのこちらの喫茶店の店主に手当てをお願いしたんです」

「それはご丁寧にありがとうございます、万梨亜、帰るよ」

 ジュリオは冷静な口調で右手を差し出した。万梨亜は無言でうなずいたが、その手をとる事はできなかった。舌打ちをしたジュリオが乱暴に万梨亜の右手を掴んで引っ張り、そんな万梨亜を心配したのか大島が背後から声をかけてきた。

「戸田さん」

 万梨亜は無言で頭をさげ、その部屋をジュリオに引っ張られて出た。店内に入ると佐代子があらあらと言いながらも、「またいらっしゃい」と明るい声で言った。しかし万梨亜はあいまいな笑みを浮かべる事しかできないまま店を出た。また後日お礼を言いに来たほうがいいだろう。

 足早に歩いていくジュリオに引っ張られながら、万梨亜は自分はやっぱり駄目な人間なのだろうかと思った。バルダッサーレの会社でも、また迷惑をかけるような無能社員になるのだろうかと。こんなに時間が過ぎているとは思わなかった。時間にルーズな社員はどこでも嫌われる……、ジュリオが怒っても無理はない。

 会社へ帰ると瑛が万梨亜の膝を見て、大丈夫かと声をかけてくれた。万梨亜は遅くなってすみませんでしたと頭を下げて、膝の怪我は大丈夫だと返事をした。しかし瑛は心配そうに膝を見ていた。

「早く休憩に行け」

 怒っているジュリオは、そんな瑛の態度にも頭にくるのか、つっけんどんに言った。瑛は万梨亜を庇うように言った。

「ジュリオさん、そんなに怒らなくても。第一、警察と銀行に行かせたのは自分でしょ」

「時間がなくなるだけだぞ、早く行け」

「彼女を叱るなよ。怪我までしてるんだし」

 ジュリオは冷たい顔をして、自分の席で書類に目を落としている。瑛は万梨亜の頭をぽんぽんといつもの様に優しく手のひらで叩くと、気にしないようにと言って部屋を出て行った。

 万梨亜は自分の机の上に置かれている未処理の伝票を手にした。結構溜まっている。パソコンをつけて入力を始めると、カチカチとキーボードをタッチする音が静かな部屋に響く。ディスプレイの画面が霞んで見えにくくなり、万梨亜は自分が泣いているのに気づいてそっと席を立ち、トイレに向かった。あそこならジュリオも入ってこないし、咎める事も無いだろう。

 ふと、昼食を食べていない事を思い出した。でもちっともお腹が空いていない。佐代子がせっかく入れてくれたミルクティーも、一口も口にしていなかった。

 万梨亜は自分に言い聞かせた。

 時間にいい加減な自分が悪い。だからグチグチ泣いては駄目だ。カワサキハウスに行く事はそうそうない、された事は忘れよう。傷ついたって仕方ない。大島についてはあの銀行へ行かなければ会う事はない。あの銀行のATMはスーパーにもあるのだから。

 トイレで声を押し殺して泣くと、スッキリとした。目薬をさすと赤い充血も真っ白になる。これはカワサキハウスでいじめられていた時に日常的にしていた事で、いつも僅か数分で外見上は立ち直る事ができた。

 席に戻ってもジュリオは見向きもしない。その日はそれから来客などがあって、ジュリオは忙しく、万梨亜と仕事が重なる事はなかった。そして万梨亜も書類整理に追われて忙しく、瑛から経理の仕事の説明を受けながら仕事をこなした。

 結局遅れた分残業して、万梨亜はタイムカードを押した。夕方にジュリオは現場へ行ったのだが、会社に戻らないとホワイトボードに書いてあった。

 会社を出て、はたと万梨亜は立ち止まった。

 どうもあのマンションへは戻りづらい。ふと気になって携帯を見ると、大家からメールが来ていた。部屋の鍵の付け替えが完了したから戻っておいでとある。万梨亜は荷物は後日取りに行く事にして、今日は自分のアパートに帰る事した。めちゃくちゃなままだろうが、とりあえず寝るところは確保できるだろう。その旨をジュリオ宛にメールして、万梨亜は少し気分が晴れた。

 食事を作る体力が残っていなかったので、コンビニで夕食と朝食の分のお弁当などを購入し、万梨亜は久しぶりに自分のアパートへ戻った。大家は万梨亜を見て喜び、万梨亜の部屋の掃除を手伝ってくれたので、思ったより早く掃除できた。

 大家が帰ると万梨亜は夕食を食べて、シャワーを浴び、早めに寝る事にした。今日はいろいろありすぎて疲れている……。

 ベッドに入って三十分ほど経った頃、呼び鈴がなった。眠りに入っていた万梨亜は、目を擦りながらドアまで足音を殺して歩いてドアスコープを覗いた。空き巣かもしれないと警戒しながら。

 しかし空き巣でもないのに、万梨亜は息が止まるかと思った。

 ジュリオが茶色の革のコートを着て、そこに立っていたのだ。

「フォンダートさ……」

「開けてくれる? 起きているんだろう?」

 彼はあくまで職場の上司だ。彼は自分に特別な感情があるらしいが、万梨亜は会社でそういう関係はやはり作りたくない。大島といい、彼といい、人より優れた容姿の男性に近寄りたいとも近寄られたいとも思わない。

 ドアの向こう側で、ジュリオがドアを小突いた。

「開けて。怪しまれるよ、男がいつまでも部屋の外にいると」

 確かに良くない。ジュリオは帰ってくれそうもなく、万梨亜はしぶしぶチェーンを外してドアを開けた。ジュリオが冷気と共に部屋に滑り込み、ドアを閉めた。

「何でマンションに帰ってこないの?」

 怒りを抑えたような声でジュリオが見下ろした。外からの街灯の光が彼の片頬に当たっていて、妙な迫力があり万梨亜は思わず後ずさった。ジュリオはそのまま無言で靴を脱いで上がってくる。万梨亜はさらに後ずさった。

「何でって……、もうこの通りアパートに住めますし……、あ、服は代金を支払わせて頂きますから、今までの生活費も……」

「あの銀行の御曹司と付き合う事にしたの?」

 万梨亜はぽかんとした。

「え?」

 なんで今、大島が出てくるのだろう。彼は今日会ったばかりの人だ。向こうはカワサキハウスに勤めていた万梨亜を知っているようだったが、付き合うつもりは毛頭ない。

「僕は用済みって事?」

「おっしゃってる意味がわかりません。マンションに泊めていただいた事にはとても感謝……」

 備え付けのシンクの台をジュリオが力いっぱい叩き、ステンレスの台が悲鳴をあげた。万梨亜はジュリオが自分を利用したと勘違いして怒っていると思い、ただならぬ様子に震えながらも口を開いた。

「あ、の、だって、自分のアパートが元通りになったのに、いつまでも居候なんて厚かましいじゃないですか、食費も他の費用もフォンダートさん持ちなのに。私はフォンダートさんに迷惑かけたくなくて」

「次はあの大島のマンションに住むのか?」

 何故ジュリオが大島にこだわるのか分からない万梨亜は、とにかく彼に落ち着いてもらおうとした。 

「フォンダートさん。明日は朝から現場へ行かれるのでしょう? 早くおかえりにならないと……」

 左肩を強く掴まれて、その痛みに万梨亜は小さな悲鳴をあげた。何故かジュリオはこれ以上はないほど怒っている。

「あいつが来るから、僕を追い返そうとしてるんだな」

「なにをおっしゃってるんですか……、誰も来ません……」

「だったらなんで、部屋を暗くしてるんだ。寝るには早すぎる」

「いい加減にしてくださいっ……」

 万梨亜はジュリオの頬を叩いた。しまった、上司を叩いてしまったと思ったが全ては遅い。震えながら見上げたジュリオの横顔は、前髪のせいで見えなかった。

「あ、すみませ……」

「……万梨亜が好きだから、大島を警戒して当然だろ?」

 ジュリオは呟いた。だが視線は横を向いたままで万梨亜を見ていない。

「……だって、沢山いらっしゃるんでしょう? そういう相手は」

「万梨亜は、そんなふうに言って男を振るんだね」

 傷ついた目でジュリオが万梨亜を見た。万梨亜は首を横に振った。

「私みたいな、お荷物女をからかって、そんなに面白いのですか?」

「……誰がそこまで万梨亜を傷つけたんだろうね。そいつらを殺してやりたい」

 今までいろんな人達に傷つけられてきたのは万梨亜だ。それなのに何故ジュリオが万梨亜より傷ついているような顔をするのだろう。繊細な美しさのジュリオの横顔は、触れると消えてしまいそうな感じで、万梨亜はとても悪い事を言ったと思った。

「フォンダートさ……」

「君はいつまでたっても僕を名前で呼ばないね。……悪かった、今日はもう帰る」

 ジュリオは玄関へ歩くと、靴を履いて万梨亜を振り返った。

「明日、夕方から模型を作り始めるから。絶対に出社してね。あと鍵や窓が頑強になってもここはあまり治安が良くないから気をつけて……」

「分かりました。フォンダートさんも帰り道に気をつけてくださいね」

 ジュリオは寂しそうに頷いた。

「ああ、おやすみ……」

 ぱたんとドアが閉じられた。鍵がくるりと回るのを見て、自動ロックになっている事にやっと今気づいた。これからは鍵をきちんと持ち歩かないと閉め出されそうだ。

 まるで嵐のようなジュリオの来訪で、やっと、しんと静まり返った部屋の中で万梨亜はへなへなと座り込んだ。

 自分は自分の年齢に近い人を信じられない。特に異性は信じられない。好きだと言われても迷惑なだけだ。ジュリオを思って、彼を追い返した事を後悔している自分を、万梨亜は腹ただしくも悲しくなった……。

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