ディフィールの銀の鏡 第30話

 それから数週間が過ぎた。

 朝、歯を磨こうとしたジュリオは、洗面台の鏡に映っている自分に違和感を持った。何かが違う。何かとても大切なものを忘れてはいないだろうかと。青い目をじっと見返して、その深みをさらに覗こうとした時に、昨夜一緒に寝た市香という女が鏡に映った。

「おはよおジュリオ。どーしたの? 鏡なんかじっと見ちゃってさ」

 市香は全裸のままで、同じく全裸のジュリオの腕に寄りかかる。ジュリオは鏡に映った自分を見ながら言った。

「僕はこんな顔していただろうか?」

「やーね。ホント変よ?」

 きゃらきゃら笑う市香は、明るい茶色にカラーリングされた髪をショートにしている。スタイルがよくて抱き心地は悪くなかった、だが何か違うと思う。

(何が違うと言うんだ……)

 市香は考え込んでいるジュリオの頬にキスをすると、バスルームに入ってシャワーを浴び始めた。ジュリオはキッチンでコーヒーを淹れ、それを持ってリビングのカーペットのラグに座った。先ほどつけたテレビに映っているアナウンサーの黒髪を見て、ふと万梨亜を思い出した。

 緩やかに波打つ漆黒の髪に、抱きしめたら折れてしまいそうな華奢な身体、そしてあの憂いを帯びた目にどこか覚えがある気がしてならない。

「……何かを思い出そうとしているのに」

 万梨亜の事を考えようとすればするほど、それは暗闇の中へ沈んでいく。でも、何かが彼女と関らなければならないと警鐘を鳴らすのだ。

 戸田万梨亜。最初はカワサキハウスをあっさりと辞めた責任感が無い女だと思っていた。だが、調べてみるとカワサキハウスでは壮絶ないじめに遭っていたようだ。それでも半年近く頑張ったというからたいしたものだと思う。辛い思い出しかない会社だというのに、ジュリオのために、バルダッサーレ社の潔白を証明さえもした。

 いじめに遭うような何も言えないうじうじした女かと思えば、意外なところで強い。

 噛み付くようでいて、それでも冷静にカワサキハウスの従業員を相手にしていた万梨亜は、儚げな感じがする割には妙に凛として美しかった。

 マグカップのコーヒーが空になる頃、シャワーを浴びてすっきりとした市香がスーツに着替えてリビングへ入ってきた。濃い目の化粧が市香の派手やかな顔立ちにはよく似合っている。

「ねえ、今夜も来ていいかしら?」

「今夜は駄目だ。明日は朝早くから現場へ行かないといけないから」

「いいじゃない恋人なんだしさ。お留守番してあげる」

 甘えるように擦り寄ってきた市香を、ジュリオは冷たい視線で見返した。ジュリオの女遊びは徹底していて、決して合鍵など渡したりはしない。深入りはさせないのだ。市香はそれに気づくと小さな声で謝り、バッグを抱えてそそくさと部屋を出て行った。

 マグカップをテーブルに置いて、ジュリオはやれやれと思いながらテーブルの上に右手で頬杖をつく。

「女って皆ああなのかね」

 ちょっと身体を重ねただけで男のテリトリーに入り込んでこようとしたり、彼女面してああしろこうしろと指図したりする。性欲を解消したいだけの自分には、深入りする女はうっとうしいだけだ。だが彼女はどうだろう?

「戸田……万梨亜……か……」

 マグカップを人差し指で弾くと、透明な音が響いた。

 会社に着いた万梨亜は机につこうとして、見慣れぬ大きな箱がどかんと置いてあるのを見つけた。

「何これ?」

 昨日はこんなものは無かった。開いているその箱を除くといろとりどりの紙や発泡スチロールなどが入っている。やはり見覚えが無いものだ。

「戸田さん、住宅模型を今日教えるから」

 横に座ったジュリオが言った。住宅模型はずっと作りたいと思っていたが、ジュリオが記憶を無くしてからこの話が話題に上る事が無かったので、どういう風の吹き回しかと万梨亜は驚いた。ジュリオはそんな万梨亜を見ておかしそうに笑った。

「そんなにうれしいの?」

「はい! あ、いえ……あの」

 万梨亜がまごまごしていると、くっくっくと遠く離れたところで瑛が笑った。つられたように、ヘルメットを被りながら悠馬が爆笑した。

「めっちゃうれしそうにしてる万梨亜ちゃん始めて見た! かっわいー」

「かっ、かわいくなんてありません!」

 

 万梨亜は熱を持っている頬を両手で押さえてむくれた。皆の笑いは大きくなる一方で恥ずかしい。

「かわいくないって、言うところがかわいいね」

 ジュリオが微笑みながら言うものだから、万梨亜の頬は更に熱くなる一方で困ってしまう。こんな事は万梨亜をジュリオが忘れてしまってから無くなっていたため、一体どういう心境の変化なのかと思わずにはいられない。記憶が戻った風でもなく万梨亜は面食らった。

 その日は、瑛が建築申請の書類を提出しに外出してしまったため、ジュリオと二人きりになってしまった。

「これをボンドでつけて」

「はい」

 小学校の時の工作のノリで、万梨亜はジュリオの指示通りに材料を切って、住宅模型を組み立てていく。ジュリオが考えた家の間取りが、小さいとはいえ、しっかり家となって形作っていくのは面白かった。女性は平面図の間取り図では完成した家を想像できにくいから、ときどき住宅模型を作るのだという。

「吹き抜けの玄関やリビングって、素敵ですね」

「そうだね、狭い空間が一気に広がって開放的だから。だけどその分空調が効きにくくなるから、大変だけど。寒い地域の家にはおすすめしないね。冷暖房にお金がかかる。かからない工法は他にお金がかかる」

「大変なんですね、家を建てるのって」

「百五十年持つ家を作るのは大変だ。業者によってまちまちかな」

「普通は大体何年くらいなんですか?」

「普通が分かりにくいね。ひどいと数年でがたがくる欠陥住宅も多いよ。素材を知らない大工が家を建てると駄目だ。コンクリートにしろ木にしろ……ね」

 冷たくないジュリオは万梨亜の心を和ませ、前みたいに真面目でなくてもかまわないと思わせてしまう。先日のカワサキハウスの事件までは伝票一枚受け取るのもピリピリしていたが、今は穏やかに接してくれるので、万梨亜としても安心して仕事を進める事ができる。

 模型作りはとても楽しくて、午前はあっという間に過ぎてしまった。ランチの時間になって休憩室で万梨亜がお弁当を食べていると、ジュリオがうらやましそうに言った。

「おいしそうだねそれ」

「そうですか? 私は料理は苦手なんですけど……」

「今日は外で食べるの止めて、それ食べたい」

 ジュリオはいつも外食なのだ。

「困りますよ。私何食べたらいいんですか?」

 ジュリオはうーんと考えて、言った。

「じゃあさ、今晩作って持ってきてよ」

「ええ?」

 名案だとばかりにジュリオが両手を打った。万梨亜としては冗談ではない。たくさん居る彼女達と鉢合わせしたらどうなるのだ?

「でも彼女さん達に悪いし」

「平気平気、今日は来ないから」

「そういう問題じゃ……。第一私は料理は苦手なんですよ?」

 万梨亜が断ると、ジュリオはがっかりしたように肩を落とした。それが捨てられた子犬のようで、万梨亜は胸が痛くなってついこう言ってしまったのだ。

「じゃあ……一回だけ……ですよ?」

 ぱああっと明るくなったジュリオの顔色に、万梨亜は胸が高鳴る。赤くなった顔を見られたくなくて目をそらしたが、ジュリオはじっと万梨亜を見ているようで、困ってしまった万梨亜だった……。

 

 夕方、夕食を作ってくれるお礼と言われ、万梨亜はジュリオにマンションまで車で送ってもらう事になった。ジュリオの車に乗るのは久しぶりだ。性格が変わっても車の運転の安全性は変わらずスムーズで安定した走りで、おしゃべりも楽しく、気がついたらマンションの地下駐車場に着いていた。万梨亜は止まった車の中でジュリオに礼を言った。

「ありがとうございました」

「戸田さん」

 ジュリオが真剣な目で、万梨亜の右手を突然握った。まったくの突然な変化に万梨亜はどぎまぎした。

「フォンダート……さん?」

「……これから、行きだけでもいいから送らせてくれない?」

 万梨亜はとまどった。一体今日の彼はどうしたというのだろう? 軽い付き合いの相手は、ついに万梨亜になったという事なのだろうか? ばかげた事を考えてしまい、万梨亜は心の中で打ち消して俯いた。

「で……も、あの、彼女さんに悪いし」

「女を車に乗せた事なんてないよ」

「あ、でも、沢山……」

「寝るだけの女なら居るよ? 最低に思うかもしれないけど、皆つきあっているわけじゃない」

 いつになく真剣に言うジュリオは、あの記憶をなくす前の彼を髣髴とさせた。万梨亜は思わず隣のジュリオを見上げ、思ったより近くにある彼の顔にびっくりした。距離を取ろうとしてドアの方へ身体を動かすと、ジュリオは万梨亜に覆いかぶさるかのように顔をさらに寄せ、助手席側の窓へ片手をついた。

 いやおうなしに万梨亜の胸の鼓動は高鳴った。大島なら怖いだけだが、ジュリオが相手だと意味も無い期待が胸を渦巻いた。

「フォンダート……さん?」

「大島さんは、本当につきあってないんだよね?」

 万梨亜はジュリオから目が離せないまま小さくうなずいた。すると目の前が真っ暗になった。

「ふ……」

 熱く焼けるような唇が重なってきた。有り得ない事ばかりが起きて、万梨亜はジュリオのなすがままになっている。最近穏やかに過ごせたとはいえ、万梨亜を嫌っていたジュリオが何故キスをする? 今日のジュリオは変だ。でもジュリオから感じる熱を、万梨亜は振りほどく事ができなかった。

 自分は確実にジュリオに惹かれているのだから……。

 頬を撫でるジュリオの手が熱く気持ちが良くて、万梨亜が口をわずかに開くと、たちまち舌が滑り込んできて万梨亜のそれをゆっくりと撫でた。

「んん……」

 いつの間にか、万梨亜はジュリオに抱きしめられていた。誰が来るかしれない駐車場なのにと心の片隅で思ったが、その思いもすぐに流されていく。

(胸が……痛くて……、熱い……熱い……あつ……い!?)

 火のような熱さを覚えて万梨亜は薄く目を開けた。するとやっぱり思ったとおりだった。自分の胸が青く光りだしている。しかし、同時に外から帰ってきた車のライトが通り過ぎた瞬間、その青い光は消えた。静かにジュリオは万梨亜を離し、運転席に戻った。

「いきなりキスしてごめん」

 ハンドルに両手で握ったままうつ伏せになったジュリオが、恥ずかしそうに言った。そして少年のような目をして万梨亜を見る。その眼差しに胸がドキンと飛び跳ねた。

「今まであんなに冷たい事を言っておいて、いまさら何だと思われると思う、僕は女性関係がいい加減だし……。でも、何故かわからないけど、最近戸田さんが気になって仕方ない。だから……つい」

 つい。

 そういう事かと万梨亜は内心かなりがっかりした。やはり毛色が違う万梨亜が珍しくて、手を出しただけなのだ。万梨亜はロックを解除してドアを開けた。

「気にしてません、じゃあ、またあとで夕食をお持ちしますから……」

 思ったより冷たい声で言った自分に、万梨亜は驚いた。ジュリオが万梨亜を引きとめようと手を伸ばしたが、それより万梨亜がドアを閉めるほうが早かった。そしてそのまま万梨亜は背後を振り返らずにエレベーターまで走り、降りてきていたエレベータに乗った。ジュリオは追いかけてこなかった。

 万梨亜は一人でくすくす笑った。

「そんな事、有り得るはずが無いじゃない……」

 万梨亜など、好きになってもらえる価値などあるようには思えない。彼にとってキスやセックスは、挨拶の様な感覚なのだろう。

「冷たい目で見られなくなっただけでも、うれしいって思わなくっちゃね」

 何も悲しい事が無い日。傷つく事が無い日が、万梨亜にとってはいい日なのだ。胸躍るようなときめきも、甘く心が酔うような言葉も、万梨亜には有り得るはずもない。

 部屋のドアを開けて、背中で押すように閉めた。

「駄目よ万梨亜。期待しては……」

 懸命に、浮かれている自分を小さな声で戒めた。そう、純一郎のような事になったらどうする? あの男と付き合っていた時だって、こんなふうに一人で舞い上がっていなかったか? 本気になって傷ついたのを忘れてはならない。

 着替えるとエプロンをつけて、万梨亜はキッチンに立った。今日は健三がスパゲティを食べたいと言っていた。冷蔵庫に牛ひき肉があったので、ミートソーススパゲッティを作る事にした。

 玉ねぎやにんじんを取り出して刻みながら、万梨亜は余計な事を考えまいと思った。しかし少しでも気を抜くと、優しいジュリオが脳裏によぎる。そのたびに万梨亜は頭を振って料理に集中した。フライパンで炒めてあとはソースを煮詰めるだけだ。デザートをつけるかどうかで頭を一杯にする……。

「期待しては駄目よ、万梨亜。お願いだから期待しないで……」

 恋とはなんて救いようが無いものなのだろう。傷つくと分かっているのに、望む事が止められない。りんごを薄切りにして、細かく切ると、他のフルーツと一緒にヨーグルトと混ぜた。

 夕食が出来上がって時計を見ると、夜の七時半を指していた。健三は今日は帰りは遅いと言っていたっけと万梨亜は思いながら、ジュリオの分を取り分けてタッパーに入れ、部屋を出た。夜にジュリオの部屋を訪れるのは彼が記憶を失う前以来だから、かなり緊張する。エレベーターで下の階に降り、ジュリオの部屋を目指して歩いた。

(あれ……?)

 同じエレベーターに乗り、万梨亜の前を歩いていた女が、ジュリオの部屋の前で止まった。万梨亜はてっきりこの階の他の部屋の住人だと思っていた。

「あら?」

 その女は今朝までジュリオと一緒にいた市香だが、万梨亜はそんな事は知らない。市香は万梨亜を上から下まで見ると、侮蔑の笑みを浮かべた。万梨亜は恥ずかしさで顔を真っ赤にした。流行のスタイルで、化粧を綺麗にしている市香と比べて、万梨亜ときたら余所行きの服を着ていたとしても洗練されていないのだ。市香は万梨亜の持っているタッパーに気づいて眉を顰めた。

「なーに。まさかそれ、ジュリオに食べさせようって言うんじゃないでしょうね? そんな田舎くさそうなもの、彼が食べるわけ無いでしょ。ばっかじゃない? 第一あんた誰よ? 彼とどういう関係?」

 怪しまれていると気づいて、万梨亜は慌てた。

 

「フォンダートさんと同じ会社の者なんですが」

「同じ会社ぁ? 勘違い女の作ったものを、ジュリオに食べさせるわけにはいかないわね。さっさと帰ってよ」

「でも」

「何よ?」

 部屋の鍵を取り出して、市香は万梨亜に背を向けた。

「フォンダートさんが、持ってきてっておっしゃったんですが……」

 その言葉が気に入らなかったのか、市香は振り返ると、万梨亜の持っていたタッパーを取り上げて乱暴に廊下へぶちまけた。

「丸分かりの嘘つかないでくれる? ゴミ持ってくるなんてサイテー。ジュリオがそんな事言うわけないでしょ。今夜は私に来いって言ってたんだから! 彼がいい男だから嘘ついて接近したくなるのはわかるけどね。あんたみたいなダサい女じゃ無理よ」

「…………」

 床に落ちたミートソーススパゲティを見下ろす万梨亜を置いて、市香はジュリオの部屋に入っていった。バタンと閉じられた部屋の前で、万梨亜はやっぱりこういう事になるのかと思いながら、ゴミと化したスパゲティを集める事にした。一度エレベーターで部屋に戻り、ゴミ袋とちりとりと水の入った雑巾を持参すると、ゴミになったものを袋に放り込んで、廊下の床のタイルについているソースを水掃除してきれいにした。管理人を呼べばしてくれるのだろうが、万梨亜は自分で掃除したほうがいいだろうなと思ったのだ。

 市香にされた事より、変わっていないジュリオに万梨亜は傷ついて失望していた。先ほどまでの浮き浮きとした気持ちはなりを潜め、万梨亜はゴミ袋を持って重い足取りでエレベーターに乗った。ジュリオが部屋から出てこないところを見ると、やはりからかわれたのだろう……。

 部屋に戻ると健三が帰っていた。健三は暗い表情の万梨亜に何があったのか聞いて来たが、なんでもないと万梨亜は言って、健三の食事の用意をする事にした。盛り付けるだけだから簡単だった。万梨亜は食べる気にもなれずそのまま部屋へ向かおうとしたが、その万梨亜を健三が優しい声で引き止めた。

「……泣きそうな顔をしているね」

「いいえ、そんな事は」

 健三が万梨亜を抱き寄せた。

「大丈夫だよ。何があっても私は万梨亜を助けるから」

「……いけません。だって……」

 健三にはマリアや妻がいるのだ。万梨亜みたいな使用人の子供に情けをかけてもマイナスにしかならない。ただでさえ万梨亜の母は好待遇のせいで、使用人仲間内でいじめのようなやっかみが多かった。

「万梨亜はそんな事を気にする必要は無い。ここで安心して暮らしていたらいいんだよ。ここにはマリアも妻も来れないんだから」

「よくないです。家族は一緒にいるべきなんですから」

「優しいね万梨亜。そういう所がとても好きだよ」

 ふと首筋を触られて万梨亜はぎくりとした。どことなくそれは性的な雰囲気があった。しかし健三は、優しい笑顔で万梨亜を見下ろしているだけだった。

「……だから、家族のいない万梨亜がさびしそうだと思って、いてもたってもいられなくてね」

「旦那様……」

 こんな優しい健三がそんな邪な気持ちを持つはずが無いと思い直し、万梨亜は自分を叱った。

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