清らかな手 第1部 第01話

 埃やくもの巣だらけの空き家の中で、雅明は相棒のフレディと頭目であるトビアスの指示を待っていた。二人が潜んでいるボロ家から遥か遠くに、今回のターゲットの館がある。

「いつまでここにいなきゃいけないんだ。暑いぞ」

 雅明は持ってきたパンにかぶりつきながら、もごもごと言った。二人の間にはシートが引かれていて、そこにパンやウィンナー、果物などが置かれている。

「そうだな、春だってのに夏みたいだ。こんな日に取引するってんだから、相当金が欲しいんだな」

「あのアレクサンデルって男の裏の顔は金の亡者か」

「ふん、どこにでもいやがる」

 ウィンナーを食べながらフレディもうなずく。フレディも雅明と同じでどこかいいところの出身らしく、妙に食べ方に品がある。30歳を少し超えたばかりの雅明の相棒の男は、彼らが入っている闇の組織「黒の剣」のボスであるトビアスの妻、アンネの愛人でもあるらしい。凛々しい容貌をしていて歩いているだけで女が群がる。

 雅明もアンネの愛人だったが、彼はフレディのようにセックスは望まないので苦痛だった。

「身寄りのない若い男女を誘拐して売り飛ばすなんて、鬼畜だ」

「そんな奴はうようよしているもんさ」

「国がしっかり取り締まらないから、そんな奴が市議会議員なんだよ」

「だから、われわれのような裏の組織が必要なのさ」

「ふん」

 ペットボトルの水を飲み干す雅明に、フレディは思う。この男はこの世界にはまだふさわしくないと。

 雅明はドイツのシュレーゲルの街の貴族であり、目立たないが毎年黒字を吐き出しているシュレーゲル社の人間だ。輝かしい一族の一員だと言うのに何故こんな闇の組織に入っているのか理解できない。勘当されているというが、そう簡単に勘当されてはいさよならと気軽な家風ではなかったように思われる。フレディから見たら雅明は線が細すぎて繊細だ。仕事ぶりもフットワークは軽いが、清濁併せ持つことが出来ず、要領が悪いとも思う。極端に潔癖なのだ。

 もう陽が暮れようとしていて室内はかなり薄暗いが、相手に気取られる為、照明をつけることはできない。昼に今夜取引があるとトビアスに報告したにも関わらず、いまだに連絡がなく雅明はイライラしていた。今までは遅くても三時間以内にはなんらかのリアクションがあった。一体どうなっているのだと思う。

「トビアスめ、不手際極まる」

「そうだな」

「早くつかまっている人間を助けださないと……っと!」

 ウィンナーに塗られていたトマトケチャップが指につき、雅明は舌を出して舐めた。フレディはその雅明の所作が妙に扇情的でドキリとする。女主人のアンネが愚痴をこぼすその美しさに、男色の趣味などないのにおかしな気分に飲み込まれそうになる。

(俺はその気はないんだけどな……)

 頭をふりふり、フレディは自分の分を平らげた。

 食事の後、フレディは立ち上がりながら言った。

「俺、ボスにもう一度確認してくるから、アウグストはここで待っていてくれ」

 アウグストとは雅明のドイツの名だ。彼は日本人の父と1/2ドイツ人の母との間に生まれた為、こんな事になっている。母方の親族の影響だ。

「ったく、携帯の電源も入らないんだからな。わかった……気をつけろよ」

「わかっている」

 フレディはやわらかく微笑み、ネオンの光を頼りに部屋を出て行った。

 雅明は、ため息をつきながら壁にもたれた。

 途端、銃声がした。一気に身体が緊張する。

 フレディがやられたと、すぐにわかった。

(まさか、やつらかっ)

 部屋から飛び出そうとしたが数人の足音が家の中に入ってくるのが聞こえ、とっさに隅のボロ机の下に身を潜めた。

『いたか?』

『まだここにいるはずだ、探せ!』

 英語を話している。ということはアレクサンデルの手下ではないのだろうか。雅明は銃を手にしながら怪しげな男達の足音が過ぎ去ったのを確認すると、隠れていた机から出てそっと耳で様子を伺う。男達の階段を上る音が響き、上へ消えていく。

 とにかくここは危険だ。あの男達の様子では自分を探し出すまで、くまなくこのボロ家を捜索するだろう、今のうちに脱出しなければならない。フレディの身が心配だが、すべてはここを脱出してからだ。

(……おかしい)

 暗闇の中、家の入り口に人影がないのが気になった。普通は仲間が一人や二人いるものだ。

 罠かもしれないなと雅明は思い、さらに外の様子を伺うために別の出口を探そうとした時にそれは来た。

「ぐ……っ」

 見事に気配を絶って、いつのまにか雅明の背後にいた男が首の急所に手刀を落とした。

 気が付いた時には見知らぬ部屋で雅明は寝転がされていた。

 モダンな室内でおおよそドイツ的ではない。手には手錠がかけられていて自分の失敗に雅明はため息をついた。まだ闇の組織の「黒の剣」に入って一年しか経っていない。経験が浅い雅明は今回のこの仕事が始めての大物だった。人身売買をしているという、市議会議員のアレクサンデル・バウムガルトの首根っこを掴むこと。証拠をつかんでこいというのがトビアスの指令だった。

 現場を押さえることが一番だと言うフレディに、雅明は慎重だった。アレクサンデルはただの市議会議員だが、父親は連邦政府の議員であり大統領候補にもなりうる人物だ。金もあり、警備も凄まじそうなところへたった数人で乗り込めるものではない。

 だがフレディは、バウムガルトの館は思ったより手薄なこと。警備の杜撰さなどを示し、太鼓判を押した。しぶる雅明に何かあったらサポートに入るとトビアスが言い、仕方なく雅明は了承した。彼はトビアスのサポートの的確さを知って、頼りにしていた……。

(やれやれ……捨て駒にされたかな)

 茶色の絨毯の上を起き上がると、雅明は立ち上がった。窓の外には鉄格子があり、ドアも鍵がかかっていた。持っていた拳銃も携帯も抜き取られていて、万事休すだった。

 そこへドアの鍵が開けられる音がして、雅明は部屋の隅に移動する。

 入ってきたのはアレクサンデル本人だった。写真で見たとおり、はしばみ色の目に漆黒の髪、すばぬけた長身でまだ30歳と若々しい。だが、普段の市民に向けるようなさわやかな笑みはなく、どこか嫌な濁りがあり、雅明は厄介なことになったと思った。腹心と思われる貧相な顔の中年男が隣に立っていて、得たいが知れないものを感じる。

「アウグストとか言ったね。君の相棒のフレディ君は今地下牢だよ」

「…………」

 アレクサンデルはわずかに顔色を変えた雅明に余裕の笑みを見せながら、革張りのソファを指し座るように促した。だが雅明はそのまま動かなかった。その態度を特に気にした風もなく、アレクサンデルはゆったりとソファに腰を沈めた。

 中年男はそのアレクサンデルに礼をすると、部屋を出て行く。

 煙草に火をつけると、アレクサンデルは話しだした。

「もうバレているから話してしまうけれど、政治というものにはお金がかかる。だからこういう裏の商売もしているわけだ」

「………………」

「最近、素人丸出しの君達がちょっかいを出してくれるから、やりににくてね。ばれないと思っていたのかね? あのぼろ家はわざと放置されていたんだよ」

「………………」

「面白かったよ、今日取引をするという偽情報に見事にひっかかってくれた。トビアスの部下だと言うのに間抜けな奴らだな君達は」

 表情を変えない雅明を、アレクサンデルは面白そうに見つめる。そして、目を細めると灰皿に煙草を押し付けて火を消した。

「それでね、捕まえたらとっとと始末しようかと思っていたんだけど、気が変わった。二人とも売ってしまおうと思うんだよ、名案だろ?」

 どこが名案だと雅明は胸の中で毒づいていた。またこの手の輩かと。

 最近自分を誘拐しようとする輩が増えた。依頼を遂行しようとすると敵方が自分を殺さずに捕まえようとするのだ。

 

「私を売って利益があるわけないだろう」

 初めて口を開いた雅明に、アレクサンデルはにやにや笑う。

「ははは。それだけの美しさならたいそうな値段がつく。うちのお客様は桁違いのお金をお持ちでね、気に入ったら大金を吐き出してくれるんだよ」

 反吐が出るとはこの事だ。人を人とも思っていない、金の亡者だ。雅明は茶色の目を冷たく光らせて、近寄ってくるアレクサンデルを睨んだ。アレクサンデルは手を伸ばすと雅明の顎をそっと上向ける。

「いいねえ、銀色の髪にそれにふさわしい美しさ。君ほど美しい男は見たことがないよ。女性な容貌だというのに身体は男だというから、女性のお客様に需要がありそうだね」

「………………」

 表情を変えない雅明に、アレクサンデルは低く声を落とした。

「でも、男でも需要がありそうだ。……俺みたいな男にね」

「!」

 手錠を掴まれて前につんめのった雅明は、アレクサンデルに後頭部を掴まれた。

「んん……」

 唐突に口づけられて混乱する雅明にの口腔内に、アレクサンデルの舌が入ってきた。男の舌が入ってきたという薄気味悪さに雅明は思い切り噛み付く。すぐに口の中に錆びた鉄の味が広がった。

「そうくるのかね」

 唇を離されたかと思うと、次の瞬間には強烈な平手打ちが待っていた。両手が使えず床に転がった雅明の腹に蹴りが入り、激痛が走った。

 痛みに耐える雅明の銀の髪を掴んで引きずり上げ、アレクサンデルは言った。

「俺の言うことを聞かないと、地下牢の相棒を消すぞ……」

「……うるさい、消したければ消せ、ついでに私も消したらいいだろうが」

「ほう、こういう場合は自分を差し出すのがパターンだろう?」

 そのまま床に転がされて、雅明はシャツのボタンが外されていく。冗談ではないと思うが、急所を蹴られたために身体が思うように動かなかった。ズボンも下着も抜き取られて全裸にさせられる。

「男の癖に真珠色の肌だね。きれいだ」

「……くっ」

 いきなり首に噛み付かれて、雅明は呻いた。さらにまだ萎えている己自身をぎりぎりと掴まれ額に汗が浮かぶ。アレクサンデルは噛み跡がついたそこを舐め、唾液で濡らしてうっとりとしたように肌を撫で始めた。

「いい顔をするね。楽しませてくれたまえ……石川雅明君」

 日本の名で呼ばれて雅明は目を見開く。ほの暗い色を宿したアレクサンデルの目に陰惨なものが入り混じった。

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