天使のかたわれ 第27話
雅明はアルブレヒトに遠慮して館には帰らずに、シュレーゲルから100キロほど離れた街に、小さなアパートを借りて一人で生活を始めた。絵筆も再び取ったが、今まで描いていた人物画を描かず、抽象画を描くようになっていた。再会したシラーはそれを残念がったが、ディルクの仕出かしたことを知っているらしく、人物画を強く勧めるようなことはなかった。
「私が悪かったのかもしれない。私があんなことを君にそそのかさなければ……」
「いいえ、先生は何も悪くない。悪いのは全て私です」
後悔するシラーに雅明はきっぱりと言い、アルブレヒトにもシラーを追及させなかった。シラーは雅明のこれからのバックアップを約束してくれ、時々アパートへ指導に来てくれた。
しかし、人物画を得意としていた雅明が描いた抽象画は評価できるものではなく、絵はやはり売れなかった。雅明は最初からうまく行くとは思ってはいなかったので、醸造会社の下請けの運送会社に職を得て、それで日々を食いつないでいた。
車を一日中乗り回し、ワインのケースや樽を運ぶのはかなりの重労働だったが、仲間たちとの会話やくだらない冗談、仕事後の酒の付き合いなどは楽しい。ベルギーでの飲んだくれ生活を思うと、いかにあれが不摂生な生活だったのかがよくわかる。なにより充実感がまったく違う。
ソルヴェイとミハエルの行方も追い始めた。
予想していた通り、アルブレヒトに内緒にして始めた捜索は、足取りどころか気配でさえも掴めなかった。
焦ってはいけないと雅明は自分に言い聞かせる。そんなにあっさりと見つかるわけがないと。
幸せならばそれでいい。
だが幸せでなかったら……、必ず救い出してみせる。
今日の配達先は、最近建ったばかりだという瀟洒な館だった。雅明たちはトラックを裏口に回し、そこから館の厨房へ酒のたるをいくつも運び込んだ。
全てを搬入し終えると、仲間のエルマーが支払いを受ける為に奥へ入っていった。
雅明は先にトラックへ帰ろうとして、呼び止められた。
「貴方、アウグストではない?」
そんなにシュレーゲルから離れていない街で、知り合いが居てもおかしくはなかったが、雅明はその声に何故こんなところにと思った。
警戒心だけがひどく胸を刺す。
なぜなら、声をかけてきた上品なドレス姿の女は、ベルギーに居るはずのアンネだったからだ。
雅明は、過去に関わる人間と口を聞きたくなかったので、知らぬふりをした。
「人違いでしょう」
そのまま通り過ぎようとする雅明の作業着の袖を、アンネが逃すまいと強く掴んだ。
「いいえ! 貴方はアウグストよ。見間違えるわけはないわ」
「見間違いです。美しい奥様」
「今ここで、貴方に恥をかかせてもいいのよ? この男は誘拐犯だったんですよって」
アンネは雅明の過去を全て知っている。
雅明は舌打ちしてアンネに向き直った。汚い作業着姿の男と美しいドレスを着た女。傍から見たらこっけいだろう。
「何の用だ。見るところお前はここの女主人のようだが」
「そう、結婚したのよ」
「幸せなんだろう?」
「夫は溺愛してくれるわ。でも満たされないの」
「火遊びの相手ならお断りだ」
アンネに掴まれた作業着の裾を雅明は引っ張ったが、彼女は離さずにっこりと微笑んだ。
「ねえ、貴方の元奥さんの、ソルヴェイの居所を知りたくはないこと?」
「…………!」
揺れた雅明の薄茶色の瞳を見て、アンネは薄く笑った。
「夜にまたここにいらっしゃい。その時に話してあげる。ああ、屋敷の人間は心得ているから心配いらないわ。主人は私の火遊びを容認しているのよ……、それが結婚の条件だったのだから」
「……わかった」
雅明が承諾すると、アンネはようやく裾を離した。エルマーが戻ってきたので、雅明はさっとアンネから離れ、同じトラックに乗り込んだ。
「すごい美人だったな。知り合いか?」
「ああ」
流れる車窓を眺めながら、雅明はため息をついた。エルマーはどういう仲か聞きたそうにしたが、雅明が目を閉じたのでそれ以上は追及してこなかった。
夜、雅明はアンネに言われた通りに、同じ出入り口を訪れた。するとまるで見ていたかのようにドアが開き、メイド服を着た中年女が雅明をアンネの部屋に案内した。
アンネの部屋は復古調の貴族のような部屋で、どことなくシュレーゲルの館に似ていた。
「来てくれたのね」
出迎えたアンネの、大きな乳房や腰の下の茂みがはっきりと見える薄い紫の夜着がひどく挑発的で、雅明はその色香をまともに浴びて後ずさった。メイドに振り返ったが、メイドはドアを閉めてもういなかった。
アンネは雅明の手を引いて口を尖らせた。
「探したのよこの数ヶ月……。いきなりいなくなるなんて、ちょっとひどいんじゃない?」
「家の者が迎えに来た」
「売れない絵を描いてるそうね。私のところに居たら楽にお酒を飲んでいられたのに」
昼間の汚い作業着や、運送会社の仕事を馬鹿にしない辺りが、アンネらしかった。
「……で?」
雅明は早く家に帰って眠りたかった。しかし抱きついてきたアンネは、雅明の耳元に官能的に囁く。
「抱いて。まさかただで教えてもらえるとは、思っていないでしょう?」
「…………」
「私の気が変わらないうちに、言う通りにしたほうがいいわよ。ソルヴェイはホテルを点々と移動して暮らしているの。明日にはもういないかもしれないわね」
「どういうことだ!」
「だから、知りたかったら……」
面倒だが仕方が無い。
「……わかった」
雅明はもともと性に淡白な性質だ。今までは衣食住を提供してくれる代わりに、セックスをしていた。仕方なしにという態度をありありと見せながら、服を脱いでいく。嫌がっている美貌の男に抱かれることに興奮を覚えているアンネが、それにますます欲望と期待を募らせているのを気づかないまま……。
「ねえアウグスト、どうして私が結婚したかわかる?」
「性癖が合ったからか?」
雅明はそのまま、アンネにベッドへ押し倒された。女豹のようにきらめく瞳が自分を見つめる。
「違うわ。貴方を確実に囲える男だからよ」
「な……!」
唇が重なった。
アンネは余程結婚相手に満足がいっていないのか、貪欲に雅明を求め、なかなか終わらせてくれず、ようやく彼女が雅明を離したのは<、空が白々と空けてくる頃だった。
「アウグスト、貴方は本当に変わらないわ。素敵……」
豊満な身体を押し付けてキスを繰り返すアンネに対して、雅明の表情は氷のように冷たい。彼にとってこのセックスは義務にすぎない。
「それで、ソルヴェイのいる所は?」
いい気持ちでいたアンネは顔を歪めたが、それも一瞬だった。
「……ホテルローゼン。この街の駅前にある観光客相手のホテルよ」
アンネは煙草に火をつけてくわえた。嗅ぎなれない妙な匂いに、雅明は銀色の眉をひそめた。
「ソルヴェイは何故ホテル暮らしなんだ?」
「それだけ危険な男と結婚したからに決まってるでしょ。定住したらやばいくらいのね。あの子の父親のヨヒアムぐらいの悪者になったら、定住するのではなくて?」
「…………ソルヴェイの相手の名前は?」
「ワルター・クロイツと言うらしいけど、偽名よ。本名は誰にもわからないわ」
そんな男といて幸せなわけがない。雅明は唇を噛み締めた。
アンネは煙をゆっくりと吐き出した。
「助けようとか思わないほうがいいわ。ワルターは一流の狙撃手よ。貴方は確実に死ぬ」
「彼女のために死ぬのなら本望だ」
雅明は服を着て立ち上がった。その雅明をじっと見ていたアンネが、一枚の紙切れを差し出した。
「ホテルに行く前に、この住所に行きなさい」
紙には男の名前と住所が書かれていた。
「……トビアス? 誰だこれは?」
「私の知り合いよ。裏でのね。貴方のことは話しておくから」
「裏の世界とかかわり合いになりたくはない」
「ボディーガードが必要だわ」
「この男に殺されたらどうするんだ?」
「絶対にないわ。貴方の絵を気に入ってたもの」
「……そういうことか」
うまいことを言って、裏の組織に引きずり込もうという算段だと察し、雅明がその紙を破ろうとすると、突然アンネが雅明の首に両腕をまわしてキスをしてきた。
「ん……!?」
妙なしびれる甘さが口腔内に広がり、雅明はアンネを突き放した。
唾液を何度も吐いたがそれは治まらない。
「何を飲ませる!」
「もう遅いわ。少しでもそれは有効なの。安心なさい。ただの睡眠薬だから」
「そんな、もの、を……」
アンネの姿がぼやけてくる。雅明は部屋を出ようとして跪いて、膝をつく。そのまま床へ倒れこんだ。
「う……」
背中をアンネが撫でてくる。
「悪いようにはしないわ。貴方にはプラスになるはずよ。素直に彼に会いに行こうとしたら、こんなことはしなかったのに。馬鹿ね」
「だまれ……私は普通に生きると決めたんだ」
力を失っていく雅明の頭を、アンネは自分の膝に乗せた。
「ソルヴェイを救いたかったら、裏の世界に入らないと無理なのよ。残念ながらね」
「…………」
雅明は、そのまま深い眠りに吸い込まれていった。
ぼそぼそと話す声がする。
一人はアンネの甲高い声、一人は腹に響く低い男の声。
雅明が頭痛を覚えながら先ほどと同じベッドから起き上がると、赤毛の中年の男が振り向いた。
「アンネ、お前の恋人が目覚めたぞ」
「アウグスト、気分はいかが?」
アンネは美しい青緑色のドレスを着て、ベッドの端にまで歩いてきた。
「紹介するわアウグスト。こちらは私の主人のトビアスよ。彼に会って欲しかったの」
「…………」
雅明は無言でトビアスを見た。トビアスは身長が高い美丈夫だった。雅明より20センチは高そうだ。焦げ茶色の目は、どこか暗く油断がならない光を放っていて、その風体に、雅明の脳裏を知っている誰かがかすめた。
「寝ている顔も美しかったが、起きているともっと美しいな。私の恋人にならんか? 不自由はさせんぞ?」
トビアスに手を撫で回され、雅明はとっさに振り払った。
警戒心を丸出しにする雅明に、アンネがコーヒーを入れながらおかしそうに笑う。
「いけませんよ。アウグストは繊細で真面目なのです」
「彼の双子の弟もすばらしい美しさだ、あっちでもいい」
「佐藤貴明の繊細な美しさは外見だけです。中身は油断がならない男と聞いております。痛い思いをなさるのは貴方よ」
どうやらおかしな嗜好の持ち主らしい。無言で雅明はベッドから降りた。早くソルヴェイのいるホテルに行かなければ……。
「まあ待てアウグスト。今すぐホテルローゼンに行くのは、無謀にもほどがある。お前は裏の世界では、要注意人物としてマークされているんだぞ」
雅明はトビアスを睨みつけた。
「つまりあんたも、私に害をなそうとしているんだろう? 眠り薬を飲ませて用意周到なことだ。貴明のことまで調べあげて何を考えている?」
トビアスは愉快そうに笑った。雅明にソファをすすめて自らも座り、アンネは三人分のコーヒーをソファに挟まれているテーブルの上に置くと、そのトビアスの隣に座り腰を抱かれた。
コーヒーの芳香が部屋を満たしていく。
「……光には常に影が従うことはご存知か? アウグスト」
「誰でも知っていることだ」
抽象的な話は馬鹿にされているようで腹だたしい。
早くソルヴェイを助けにいきたい。そればかりを雅明は考える。
トビアスはそんな雅明に苦笑した
「下手に動くと、ヨヒアムに麻薬中毒者に仕立て上げられるぞ? ベルギーでそうされなかったのは、ひとえにソルヴェイ嬢がお前をかばったからだ」
「……だから、よけいに助けたい」
「だが今の様子だと、ソルヴェイ嬢にたどり着く前に殺される。現にアンネに眠らされてしまっただろう? あんな手に簡単にひっかかる坊ちゃんが、ヨヒアムとその組織に歯向かおうとはちゃんちゃらおかしい」
雅明は悔しくなってうつむいた。そうだ、自分はあまりにも非力なのだ。絵を描くこと以外に何の才能もない。
「そこでさっきの話だ。佐藤貴明が光ならお前は影だ。あの弟の輝きの前では、お前は影にならざるを得ない。だが、影がないと光は輝くことができない」
「だから何が言いたいんだ!」
「佐藤貴明の会社はますます発展するだろう。そしてその分影も濃くなる。今、貴明は一人でよくやっているだろうが、いずれ行き詰まる時が来るのは目に見えている。一人で表と裏とを支えるのは至難の業だ」
トビアスの焦げ茶の目を雅明は見つめかえした。
「会社を成功に導くには正しい情報が必要だ。そしてその情報は、裏の情報と表の情報を照らし合わせて、初めて本当の姿を現す」
「……私に裏の世界に入れというのか?」
「そうだ。お前にはその才能が多分にある」
「何を根拠に……」
「どの存在感の薄さだ。お前は空気のようにその空間になじめる。ディルクの絵画展でも、誰もお前に気づかなかった。ああ、後をつけていたのは、このアンネの手下だから気にするな。それだけ美しいのに、意識しないとお前はその存在を掴ませない。だからあのヨヒアムも私も、ベルギーでお前を発見するのには骨を折ったのだ。いるだけで見る人を惹き付ける貴明とは正反対だ」
正確に見抜かれていることに怖気立ったが、雅明は必死に押し隠した。
「表に立ちたいと、私が思っていると言ったら?」
トビアスはコーヒーを皿に戻し、意地悪く微笑む。
「残念ながらその才はお前にはない」
ふかくため息をついた雅明を、トビアスは温かな目で見守る。
彼は雅明の親ぐらいの年だった。雅明の心の動きが手に取るように分かる。そして、その手はゆっくりとソファの下に伸びていく。
「じじいが知ったら仰天するだろうな」
「しないだろう。彼からも依頼がたまにある。彼も聖人君子ではないのだからな。ベルギーでのお前の居場所を、どうやって彼が突き止めたと思っているの?」
うすうす感じていたこととはいえ、改めて事実を知るとなんとなく気落ちがした。トビアスが言った。
「ソルヴェイ嬢は今の所は何の問題もない。乱暴もされているわけではないし、むしろ子供とともに共に優遇されている。冷たいことを言うようだが、今お前が今ソルヴェイ嬢の所へ行くことは、彼女の不幸を意味するよ」
「愛がない結婚で、毎日ホテルを転々とする生活でもですか」
「愛故に不幸になることもある。今のお前のように」
「私は不幸ではない……」
「画家生命を絶たれた状態で、その日暮らしを送っている伯爵家の孫、どこから見ても幸せそうには見えないな」
雅明は無言で立った。
これ以上ここにいて、この男と話し合っても無駄だ。
しかし、ドアに向かって歩き始めた雅明は、背後からすさまじい殺気を浴びせかけられ、その場に凍りついた。
見なくても、銃口が突きつけられているのがわかる。
トビアスの笑い声が響いた。
「今のはわざと殺気を出してあげたんだよ? プロの狙撃手は殺気を出さずに事を成し遂げる。今の私がソルヴェイ嬢の夫だったら……、アウグスト、お前はもうこの世にはいない」
少しでも動けば拳銃で撃たれる、雅明は冷や汗を身体中ににじませた。
「普通の男なら、これだけの殺気を浴び続けたら気絶する。アウグスト、やはりお前はすばらしい。素質も血筋も容姿もすべて兼ね備えたお前を、我々が逃すわけがなかろう? 逆らえば命はない。ソルヴェイ嬢を生きて迎えにいきたいだろう?」
トビアスの足音が背後から近づいてくる。それは雅明にとっては死神の足音に聞こえた。
雅明は、心にかすめた人間を思い出した。
佐藤圭吾。
あの男も、このトビアスのように危険な香りがしたのだ。だが彼は自分を捨て、この男は拾おうとしている。世の中はそのようにできているらしい……。
その思いは雅明に陰りをつくり、妖しい美しさとなってトビアスを魅入らせた。
「我々の組織はヨヒアムとつるんではいない。だからシュレーゲル伯爵は、依頼をしてくるんだ。安心しろ」
「…………」
右手を握られ、トビアスに口付けられる。それは契約だった。
闇はその黒い翼を広げ、雅明を確実に包み込む。
「ようこそアウグスト。我が組織、『黒の剣』へ ―――」