天使のマスカレイド 第22話
事務所での将貴の評判は、仕事はできるけど何もかも謎な人……だった。一緒に暮らしてキスまでした千歳ですらそうなのだから、あの露出が少ない会社での将貴しか知らない社員達にとってはさもあらんだ。将貴は自分をなかなか語らないし、自分をわかってもらおうと積極的に行動しない。やるべき事をしているのだから干渉するなというスタンスを貫いている。もっと心を開いたら楽な人生になるはずと千歳は思うのだが、それは自分自身にも言えるので開きかけた口は閉じてしまう。
もし駄目だったら?
また同じような事を繰り返して、さらなる地獄へ堕ちてしまったら?
その考えが常に頭の一箇所に留まって、進むべき一歩に重い枷を嵌めてしまうのだ。それは自分自身で作った枷かもしれないが、枷であるのと同時に武器でもある。自分を傷つけるようなおかしな行動をとらせないための……──。
アパートに帰って夕食を作っていた千歳は、インターフォンが鳴ったので出た。将貴宛に大荷物の宅配だ。一体何を買っているのかわからないが、将貴はよくこの手の大荷物を受け取っている。千歳が受け取らないように時間指定していて、一度ちょうどその時間に家へ帰ってきた時は、将貴は慌てて大荷物を奥の自室へ運んでいった。今日は手違いがあったのか将貴が居ない時間に宅配便が来た。サインしてリビングへ運んだがかなり軽い。両手に抱える大きさのダンボールだったので拍子抜けした。
「……シルク? 20個。なんだこりゃ」
意味不明の単語だ。発送元はイタリアだった。
まあいいかと千歳はそれをリビングの隅に置き、夕食作りの続きに取り掛かった。秋刀魚の塩焼きは何故かいつもうまくいかない。でも今日買ったこの料理本通りにすれば美味しく出来るはずだ。グリルに秋刀魚を二尾置いて塩を振る。そして煮付けに使う大根の皮をむき、油揚げは油抜きして三角切りにする。他の鍋でだしを煮立ててカスを捨て、調味料と一緒に大根と油揚げを入れた。弱火で煮ていけば19時には出来上がるだろう。ご飯も最近ガス炊飯に凝っていて、わざわざ専用の土鍋を買った。電気釜と違ってめちゃくちゃご飯がおいしいので千歳はとても気に入っている。
「ご飯がおいしいのは幸せよね」
事務所は確かに大変だが、なんとかうまくいきつつあるので千歳はご機嫌だ。すこし休憩するかとキッチンの椅子に腰を掛けて、テーブルに頬杖をついた。再び思うのは将貴についてだ。
千歳を縛るつもりはないという言葉通り、将貴はあれから千歳には一向に手を出してこない。話せるようになったので家では会話する。しかし甘いムードなど皆無で、すこし親しくなったかな? という程度だ。それが彼にとって最大の譲歩? なのをわかっているので、千歳としても甘えたり、もっともっとと恋人達がするような要求は出来ない。二人はいつも躊躇いがちに手を出して、相手を確かめるようにその温かな手に触れては、これ以上は望んでは駄目だと手を引っ込めてしまう。きっと将貴の心の奥底には、まだ美留という従妹がいて、彼女をあきらめ切れないでいるのだという考えもある。千歳の方はというとまったく元恋人の鈴木たかしに未練はない。見る目が無かった自分を腹立たしく思いながら後悔し、悲しんだり怒ったりしているというあんばいだ。
いつから将貴が、あの女らしいやわらかさに満ちた、年下の従妹を愛し始めたのか千歳は知らない。ひょっとすると彼女が生まれた時から愛していたのかもしれない。そうするとゆうに25年になる。そんな長い年月をかけて愛した彼女を簡単に心から消し去るなど、自分だったら不可能だ。
がちゃんと鍵の開く音がした。将貴が帰ってきたらしい。夜勤明けなのだからもっと家で寝ていたら良いと思うのに、一体どこへ行っていたのだろうか。
「おかえりなさい将貴さん」
「……ただいま。荷物っ……!」
リビングの隅にあるさっきのダンボール箱を目に入れた途端、将貴は慌てたようにそれを持って自分の部屋に入っていった。一体あれはなんなのだろう。しばらく経って出てきた将貴は、不機嫌な顔でリビングのテレビをつけて寝転がった。こんなふうにリビングに居る将貴は珍しい。
「寝るのならお部屋のベッドのほうがいいですよ?」
「もう会社でたっぷり寝た。これ以上寝たら頭が腐る」
思わず千歳は吹き出した。テレビはニュースの時間帯になっていて、将貴がチャンネルを一巡させたがどれも似たようなニュースしか流していなかった。今日は殺人事件と詐欺問題ばかりをどの局も流している。秋刀魚をグリルにセットして、千歳は将貴の居るリビングの隅に座った。テレビのアナウンサーは殺人事件があったという被害者の家の説明をしている。
「ニュースってどうしてこう、家族の団欒時に暗いものばかり流すんでしょうね?」
「明るいのだってやってるだろ?」
「んー、でもやっぱり暗いものが多いですよ」
「……そうだな、メインは暗いものが多いかもな」
「なんででしょう?」
千歳はそれが以前から不思議だった。ワイドショーにしてもそうだが、残酷な事件や誰か不祥事が圧倒的に多い。あれほど見ていてくだらないものはない。寝転んでいた将貴がゆっくり起き上がり千歳に振り返った。
「そりゃお前、嫌なもの見たさってのを再現しているんじゃない?」
「嫌なもの見たさ?」
「人間って人の幸福を妬む奴が大半だからな。特にテレビなんか観ている暇人はそうだろ。人の醜聞や不幸は蜜の味って奴が多いから、視聴率も稼ぎやすいんだろ」
「そうでしょうか?」
よくわからない。確かに最近までの千歳はテレビを観ている暇などなくて忙しかったが……。将貴は再びテレビに顔を戻した。
「幸せな夢から目覚めた現実より、悪夢から目覚めた現実の方が幸せだろうしな」
千歳は、はっとした。将貴の顔はもう見えず長めの癖がかかった金髪が見えるだけだ。将貴はリモコンでテレビの電源を切り、すっと立ち上がって奥の部屋に入っていく。グリルは片面焼きなので、上の部分だけが焼けた秋刀魚を菜箸でひっくり返した。そろそろ大根をおろそうか。千歳は冷蔵庫の野菜室を開けて大根を取り出し、今は幸せなのだと自分に強く言い聞かせた。これは現実だ、夢ではない。何故か無性に家族全員で笑っていた過去に戻りたくなり、熱くなる眦を大根を持っていないほうの手で押さえた。
過去は過去だ。もう直せないし消し去る事も不可能だ。それにあの過去があったから将貴に出会えた。ずっと家族と故郷にいたら、将貴との接点など一生無かっただろう。結局のところ人生というのは浮き沈みの繰り返しで、ずっと穏やかな海に浮かんでいるなんてありえない。
それでも、と千歳は思う。
将貴が美留を愛さず、挫折も無く普通に御曹司をしていたら。自分が鈴木を愛さずに、ただの偶然でその将貴に出会えていたら……、種類は違っても楽しい恋になったのかもしれない。と。
「馬鹿か私は」
この場合のもしかしたらはやっぱり無い。挫折を知らない御曹司が、お嬢様でもない千歳を気にかけるなんてありえないし、ごくごく普通の恋愛を望んでいた過去の自分が将貴に恋するなんてありえない。せいぜいアイドルを見るような目で、将貴を遠くから見ているだけだっただろう。
「やっぱり……今の方が良いのかな。良いんだよね、うん」
一人でぶつぶつ言っていると、将貴が慌てた様子でキッチンへ入ってきた。
「おい、何か焦げ臭いんだけど?」
「あ!」
考えに耽っていたせいで、グリルに入っている秋刀魚の事をすっかり忘れていた。将貴がグリルを開けると、ぶすぶすと煙を上げる焦げ焦げの秋刀魚が姿を現した。底板に真っ黒な油が焼け付いている。
「あーあ……、お前、ちゃんと見てないと食いもんにならないぞ……」
まともに焼けていた面も、油が落ちすぎてなんだがしなびて見える。千歳はがっくりと肩を落とした。また今日も秋刀魚の塩焼きは失敗だ。テーブルの上の料理本がなんだか悲しい。
「まあ皮を取ったら食えるだろ。皿出して」
「でも焦げてますよ?」
「食えるとこだけ食ったらいいの。大根おろすからおろし金も出して」
「すみません」
千歳が用意した皿に将貴は焦げ焦げの秋刀魚を載せ、出ていた大根をおろし金にあてておろし始めた。千歳がおろすと水が大量に出てしまうのだが、将貴がやると水はあまり出ず、おいしそうなおろしが出来ていく。
「本当は女性がやったほうがいいらしいよ、大根おろしは」
「そうなんですか? でも将貴さん上手じゃないですか?」
「そりゃお前、おいしくなーれと思いながらおろしてるからだろ」
なんだその幼児に母親が言い聞かせるような呪文は。千歳は先ほどまでの陰鬱な気持ちが吹き飛んで笑ってしまった。将貴はたちまち分量分をすりおろし、秋刀魚の皿の片隅におろしを載せた。
「どんな料理でもそれが基本さ。おいしくなーれと思いがら作ってるご飯には愛が入るからおいしくなるのさ。いやいやながら作られたご飯はまずいったらないよ」
「そんなもんでしょうか。じゃあうちの工場はどうなるんです?」
「さてね。でも、ああいうコンビニ弁当だって、場合によっては物凄く美味しくなるんだよ」
「どうやって?」
「秘密」
将貴は意地悪く笑いながら千歳に箸を手渡してくれた。教えてくれても良いのにと千歳は毒づきながら、キッチンのテーブルに箸を置いて配膳にかかる。将貴が完成していた汁物をよそってくれた。
やっぱり幸せなのだ。千歳はそう思いながら煮物の火を消した。