天の園 地の楽園 第2部 第35話

「恵美ー、居る?」

「あら、貴明いらっしゃい」

 恵美は美雪を抱いて、戸口に居る貴明ににっこり笑った。貴明も恵美には微笑みかけたが、そばに居る圭吾には見向きもしない。またそれは圭吾も同様だった。美雪が生まれてから貴明が恵美の部屋に来る事を圭吾は許したが、貴明が嫌いなのに変わりはないらしい。貴明の存在を無視して圭吾が素っ気無く言った。

「じゃあ私はもう行く」

「うん、じゃあまた後で……」

 キスをした圭吾が出て行き扉が閉まってから、貴明が恵美の腕の中の美雪を覗き込んだ。美雪はまだ生後一ヶ月でふにゃふにゃしている。貴明が頬をつついてもにこりともせず、ぼんやりと見つめ返しているだけだ。

「美雪を抱っこしたいんだけど」

「いいわよ」

 もうすっかり慣れた手つきで、貴明は美雪の小さな身体を抱っこした。恵美はその貴明の優しい手つきが大好きだった。しかし突然、美雪を抱いたまま貴明が片方の手で恵美を抱き寄せてきたので、恵美は身体を固くした。

「ちょ……っ貴明!」

「ちょっとだけ。不思議でたまらないから……」

「不思議?」

 貴明の茶色の目が切なそうに揺らめいているが、恥ずかしがってうつむいている恵美には見えない。

「美雪の父親が僕って事は、やっぱりあり得なかったのかな?」

 はっとして恵美は顔を上げたが、貴明の目は恵美を見ておらず、レースのカーテン越しに降り続けている雪を見ていた。二人は思い出していた、圭吾から逃れてマンションで暮らしていた時を。……恵美はどうしても貴明のプロポーズは受け入れられなかった。

 恵美はまつげを伏せた。

「……それは無かったと思うわ」

「すでに親父が好きだったから?」

「そうじゃないわ。貴明につりあわないってずっと思っていたから」

「僕はたいそうな人間じゃないよ。恵美と同じだ」

「私と圭吾から見たら別世界の人よ。圭吾が言ってたわ、私たちが土に埋もれているただの石なら、貴明は光輝く星だって……」

「なんだよそれ」

 おかしそうに笑う貴明を見て、恵美は圭吾の言葉は正しいと思った。貴明が悪いわけではない。でも捨て子だった自分のこの心境を、おそらく貴明は理解できないだろう。変な同情心を出されて哀れまれたりしたら、こちらには屈辱だ。だから恵美は自分の秘密を貴明には言えない。捨て子だった事を卑下されるより、哀れまれる方がもっと嫌なのだ。同情混じりの優しさや愛などいらない。

「私には圭吾で十分。貴明には貴明にもっとふさわしい人が現れるわ。私なんて足下にも及ばないくらいの素敵な人が」

「そうかな」

「美しくて優しくて強くて仕事もできる、ナタリー様みたいな人……。あんな人が貴明にはふさわしいのよ」

 貴明は不服そうに口を尖らせた。

「冗談じゃない。あんな男みたいな女は嫌いだね」

 恵美は貴明から美雪を抱きとった。

「貴明と結婚する人は強い人でないと駄目だわ。自分で自分を護れるくらい強い人。誰かにすがっていないと駄目な私では、貴明にとってマイナスなだけ」

「タイプじゃないなあ。強いのは」

 恵美は眠った美雪をベビーベッドに寝かせた。その優しい面差しはすっかり母親のもので、貴明は内心でドキリとしている。その聖母のように穏やかな愛が欲しい。だが恵美はもう圭吾のもので、貴明のものではない。

「……どこにいるのかしらね。貴明の運命の相手は」

「運命? は! そんなものあるものか。僕は自分の相手は自分が選ぶ。運命などに出会わされてたまるか!」

 運命とか占いとかそういうものが嫌いな貴明の言葉は辛らつだった。恵美はそれすらも聖母の顔で静かに反論した。

「スタンダールの恋愛論にあるわ。身分も容姿も関係なく一瞬で落ちる恋が真実の恋だって……」

「ドラマかなんかの見過ぎじゃないのそれ」

 貴明は恐ろしいほどのレアリストだ。男は夢を持つべきだと言うが、男の夢は大抵の場合は身を滅ぼす。だが恵美は、恋人に関しては夢でもいいのではないかと思っている。

「貴明にはそんな恋がふさわしいと思うよ」

「……ふったくせに」

 他愛のないおしゃべりをしていると電話が鳴った。相手は圭吾だった、

『まだ貴明はそこに居るのか? さっさと追い出せ』

「何言ってるの。まだいいでしょう? 美雪なんて貴方と居る時よりおとなしいのよ」

『美雪は私の娘だっ。とにかく早く仕事に戻させろ。わかったな』

「はーい」

 恵美は受話器を置き、くすくす笑って貴明に振り返った。ソファに寝転がっていた貴明は話の内容がわかっているらしく、ぶすっとしている。

「ナタリーが勉学に本腰入れろって言ってたから、今日は仕事には行かない。恵美といられないからあせってんだろ。心配性め」

「そんなんじゃ会社潰れちゃう」

「今日の仕事はどっかのパーティーなんだよ。行きたくない。香水臭い女が寄ってたかってきてしつこいのなんの」

「相変わらずモテますねえ」

 貴明は恵美が持ってきたショートケーキを一口で食べて、口をもごもごさせた。貴明は男にしてはめずらしくかなりの甘党で、逆に圭吾が甘いものは全て駄目だ。口いっぱいにほおばっている貴明が、なんだか子供っぽくて恵美は笑った。

「きれいな顔に似合わないよその食べ方」

「知るか。勝手に人の顔に夢見るな。バカらしい」

 トントンとノックをする音がした。

「どうぞ」

 恵美が言うと、グレーのタキシードを持ったあすかが入ってきた。

「貴明様お持ちしましたが」

「ありがとう」

 いきなり貴明が服を脱ぎ始めたので、恵美はぎょっとした。

「ちょっとどこで着替えてんの! 圭吾以外の下着姿の男なんて見たくないんだから!」

「別にいいじゃん。素っ裸になるんじゃあるいまし。恵美ってばいつのまに純情になったの? 親父とやりまくってるくせに」

 生々しい話をする貴明に、恵美の顔が赤くなった。

「やりまくってない!」

「ったく面倒くさいな。仕方ない部屋で着替える。悪いけどあすか部屋まで持ってきてくれる?」

「貴明の馬鹿っ、エッチ!」

「恵美のほうがエッチなんじゃない? あははっ」

「貴明っ!」

 恵美は閉じられた扉に向かって叫んだ。高校生の時もそうだった、いつもあんなふうにして貴明は自分をからかっては面白がっていた。ぶつぶつ文句を言いながらベビーベッドを覗いてみたが、美雪はすやすやと眠っている。圭吾と言い合いをしたらたちまち目覚めて泣き出すくせに、一体どういう子なのだろう。

「……まさか将来、貴明と結婚したいとか言わないよね?」

 圭吾の顔に似ていると確定してる美雪が大人になったら……。二人を並べてしまい、恵美は変なものを考えてしまったと慌ててその映像を打ち消した。

 

「貴明様、お話があります」

「何?」

 自分の部屋でシャツのボタンを外し始めた貴明に、あすかが思いつめたように口を開いた。いつもと様子が違うなと思ったのも道理で、あすかはこんな事を言った。

「私は今日でこのお屋敷を辞めることになりました」

「なんでいきなりそうなったの?」

 貴明は背もたれに腕を回し、長い足を組んでソファに座った。

「先週のお休みの日にお見合いをしたんです。両親も乗り気で私もこの方でいいかなと思いました。結婚は早ければ早いほうがいいとの先方の都合で……」

 しんと静まり返った部屋にあすかの落ち着いた声が嫌に響いた。あすかの顔は決意に満ちていて、いつもの貴明を慕うひたむきさは見えない。貴明はそれを寂しいとは思わず、そう思う自分を嫌悪した。最初から最後まで自分はあすかを利用したひどい男なのだ。

「……愛してるの?」

 貴明の問いに、あすかの表情がわずかに崩れ、ちらりといつものひたむきさが垣間見えた。

「愛せると思います」

「僕の知ってる男かな?」

「おそらくは。田辺建設株式会社の専務でいらっしゃる方です」

 貴明の脳裏に、眼鏡をかけた大人の男性が浮かび上がる。

「……ああ中宮さんか。僕より七つ年上の。穏やかだが仕事ができる男らしいね」

 あすかはメイドなどをしているが、家に帰ると旧家のお嬢様なのだ。借金は全て消えて、新しい事業がうまく行っているらしいので、その伝から縁談が来たのだろう。

「中宮さんに僕との事は話したの?」

 あすかは首を振った。いつもあすかはそうだ。貴明の気持ちばかりを優先して、貴明の中で負担になるような自分の存在を消そうと必死だった。気持ちを返してやれない貴明はいつも自分を与える事しかできず、本当に卑怯だ……。同時にあすかがいじらしくてたまらなくなった。

「あすか」

 貴明はあすかを抱き寄せてキスをした。乾いた音がしてタキシードが床に落ち、あすかが困ったように身を捩じらせた。

「あの……タキシードが……」

「ああそうだった。着替えなきゃね。あすか、手伝って」

「え? あの……貴明様?」

 貴明はあすかを横抱きにして自分のベッドにやさしく座らせ、自分もその横に座った。

「着替えるんだから、脱がないといけないね。君が脱がせて……」

「は……い」

 細い指が震え気味に貴明のシャツの前ボタンを全て外した時に、貴明はあすかを押し倒して深いキスをした。キスをしながらメイド服を脱がせていく。

「あ……、貴明……さま、ああっ!」

 肌という肌を貴明に吸い付かれて、あすかが甲高い声をあげた。

「どうしたの……?」

「もう私とは、や…&#8943あん、されないのかと、思って……ました……は……んんっ」

「そうだね。だけど最後に抱いて欲しい。そうだろう?」

 肯定の言葉の代わりに、あすかの細い腕が貴明の背中に絡みつく。思えば、あすかの気持ちを汲み取ったのはこれが最初なのかもしれなかった。

 あすかが果て、貴明も果てた後、あすかが貴明の腕の中で小さな声で言った。

「貴明様、今でも恵美様がお好きですか?」

「……好きだよ」

 あすかは悲しいのか嬉しいのか分からないような笑い声をたてた。浮かんで流れた涙もどちらのものか貴明には分からない。

「ですから、私は貴明様のおそばを離れられるんです。私、このお屋敷に来て、貴明様のおそばにいられてとても幸せでした」

「こんな悪者は一生憎め。これからは中宮の事だけを考えるんだよ」

 貴明は不機嫌に起き上がり、あすかに背中を向けた。彼女の想いを利用した自分に礼を言うあすかに、貴明は無性に腹が立った。あすかがそんな貴明の背中に自分の右の頬を押し当てた。

「貴明様はとてもお優しいんです」

「お前を利用した僕が?」

「お優しいです。どうかその優しさをお忘れになりませんよう……」

「あすか」

「……愛していました。最初の人が貴明様であすかはとても幸せでした」

 上半身だけ振り向き、貴明はあすかのやわらかな身体を抱きしめた。

「それなのにお前は僕を置いていくんだな」

「これ以上おそばにいると、お互いによくありません……」

「そうかもしれない」

 貴明は悲しそうに笑った。あすかも貴明の胸の中で同じように笑う。

(やはり私では駄目。貴明様の想いを引き出す事も、受け止める事もできないんだもの)

 メイド服を手際よく着たあすかが貴明にタキシードを着せようとした。しかし貴明はその腕を押し留めた。

「いい。このまま着たら、お前が忘れられなくなるから」

 貴明はズボンを履いて、脱ぎ捨てたシャツをもう一度着た。そして優しくあすかの頬を撫でて優しく笑いかける。

「今までありがとう、あすか。……元気で」

 それはあすかが聞いた中で、一番胸を温かくさせる貴明の言葉だった。

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