ディフィールの銀の鏡 第40話

「この女は……、本来の自分に目覚めてしまいました」

「く……」

 デュレイスは振りかざした拳を下に降ろした。自分に振り向かない男をそれでも一途に愛しているヘレネー。彼女の愛も報われる日が来る事を万梨亜は願った。

 そう思った瞬間、青い炎が万梨亜を押し包み、万梨亜の中の黒い闇をすべて吹き飛ばした。同時にいつも見える寸前で姿を消していた相手を思い出した。一緒に花を摘み、一緒に笑って、一緒に幸福を共有していたのは……。

 デュレイスが懸命に万梨亜に言った。

「私を愛していると言っていたではないか。あんなにも私の傍に居ると誓ったではないか、万梨亜!」

 うっすらとケニオンの記憶が甦った。確かにジュリアスに出会う前はデュレイスを思っていた。しかし、その想いは好きの範疇で愛にはいたらなかった。

万梨亜はデュレイスをきっと見上げ、初めてずっと言いたくてたまらなかった言葉を口にした。

「私が愛しているのは、ジュリアスだけなんです」

 地鳴りのような音が大きく響くと同時に薄暗い闇が引き裂かれた。強い地震のようにがたがたと揺れる中、万梨亜は傷ついたジュリアスを膝に抱えたままどうしたらいいのかわからない。このまま異次元に彷徨い続けるのだろうか。

「万梨亜っ……」

 デュレイスが再び万梨亜に手を伸ばしてきたが、目の前の空間が裂けて万梨亜達を分け隔てた。裂け目の向こう側のデュレイスとヘレネーの姿がかき消えていき、周囲が青い空に変わっていく。

「なに……? これは一体……」

 おかしな事ばかりが続いて耐性がついたと思っていたが、こうもころころと場所が変わるとわけが分からない。万梨亜の頭がおかしくなければ万梨亜達は今、青い空の中に浮かんでいる! 一体どうやったらこんな事になるのだろう。

「……万梨亜」

 掠れる声に万梨亜は目を瞬かせた。視線を落とすとジュリアスの顔色がよくなっていく。あんなに流れていた赤い血が、ジュリアスの身体に吸い取られるように消えた。まるでビデオテープを巻き返して見ているかのようだ。

「傷が……」

「もう大丈夫だ」

 万梨亜の脳裏に、つぎつぎと異世界での記憶が戻ってきた。

「王子……」

 ジュリアスはゆっくりと目を見開き、万梨亜の膝の上でにっこり笑った。そして万梨亜の現われた薬指の指輪に、自分のそれを優しく重ねた。

「……やっと、余を焦がれるほど愛しいと思ってくれたか」

 万梨亜の顔は噴火するかと思うほど、熱くなった。

「ええ? 私は、あの……っ」

「辛かったであろう? 愛する者が自分の為に傷つくのは」

「…………」

「誰もが愛する者の心に共鳴する。マリアやデュレイスはお前が傷ついても傷つかない。お前が笑っても満足しない。愛していたら全ての感情を分かつものなのだというのに」

「……でも、デュレイスは愛していると」

 ふふ……とジュリアスは意地悪く笑った。

「お前が嫌がっているのを無理に連れ去ろうとする。お前の事を考えぬ。それはただのエゴだろう」

「それをおっしゃるなら、王子だって……」

「愛と依存は違う。そなたは長い事マリアに依存していたから分かりにくかろう。愛とは喜びであり悲しみであり、楽しみであり怒りであるのだからな。万梨亜、そなたはその全てから眼を背けていた。自分を愛していなかったからだ」

「…………」

 万梨亜は俯いた。

「自分を愛さぬ者は人に愛を与えられぬ。愛した事がない者は愛し方が分からぬ。マリアがお前を憎む事ができるという事は、少しは愛があったのだろうと余も思う。だが、彼女は自分の気持ちに振り回されて制御できぬ。そなたが彼女をなんとかしたいと思うのはわかるが、もうそなたではどうする事もできぬのだ」

「ではマリアは、デュレイスはどうなるのですか?」

「それは二人を愛する者に、……テセウスやヘレネーにゆだねるしかあるまい。他人の心にできる事など高が知れている。人の心を動かそうなどと考えるのは傲慢な考え方だ」

「…………私はどうしたらいいのですか?」

「幸せになる事だ。幸せを望む事だ。そうすれば周りにそれが伝わり奇跡が起こる」

 ジュリアスは万梨亜の膝から起き上がると、長い銀の髪を後ろへ払った。それを見て万梨亜は大方の記憶が戻ってきた。あの黒い男……、魔王から助けてくれたのはこの人だった。

「あの、ところでここは何処なんですか?」

「ここはそなたの心の中だ。今のそなたはこんなにおだやかだから、満ち足りた幸せな空間が広がっている。そなたがはっきりと余を愛してくれたなら、ここからディフィールへ戻るように余が術を仕掛けた」

 なんとまあ恐ろしい術をかけたものだ。常に後ろ向きな万梨亜にここまでやってくれたジュリアスに万梨亜は自然に頭が下がったが、顎を掴まれて口付けられた。

「会社はどうなるんですか?」

「どうもならぬ、それぞれの人の魂を少し借りた世界だ。時空を超えてゆっくりと本人の意識へ戻っていく」

「……旦那様は……」

「あれはヘレネーに操られていた。そなたを愛していた事は変わりなかろうが、女としては見ていなかっただろう。そっとしておく事だ。ただ、マリアの出生に関しては彼女の言うとおり、あの旦那様とやらは父親ではなかろう」

 万梨亜は、ふとジュリオにプロポーズされたような記憶がある事に気付いた。それを口にするとジュリアスは声をあげて笑った。

「少し願望を入れてみた。現実になる前にゲームクリアになったからつまらぬな」

「王子!」

 怒る万梨亜をジュリアスはなだめるように甘く口付け、怒りながらもそれに返していると背後から男の声がした。

「んふふ。よかったねえ万梨亜ちゃん」

「きゃあっ」

 人が居たのかと慌てて振り返った万梨亜の目に、えらく姿形が変わった男が飛び込んできた。

 それは社長だった。神々しい白の衣装に、足元まで届くまっすぐな金色の髪。まばゆい雪の結晶が周りを光り輝くように舞っている。

 

「うまくいってよかったなジュリアス」

「こんな所まで邪魔するでない。さっさと神殿へ帰れ」

 ふてくされているジュリアスを見ていると、にやにやしている社長が言った。

「あのね万梨亜ちゃん。私は本当にこのジュリアスの父親なんだ」

「父親って……、じゃあ、神様ですか!」

「やだなあ、様なんていらないよ」

 綺麗な男だが、やはりぜんぜんジュリアスに似ていない。気付いたように社長は笑った。

「ああ、ジュリアスは母親に似ているからね。ペネロペイアはうちの神殿に今居るよ。私が永遠の命を与えたから、のんびり暮らしてる。ジュリアスも逢いに来たらいい」

「……誰が行くか。母が恋しい年ではない」

 三人で話している間に、万梨亜達はゆっくりと下に降り続けていた。眼下には懐かしいディフィールの国が広がっている。このまま行くと、テーレマコスのあの小さな家の前に降り立つだろう。

「ジュリアス。この先も万梨亜を中心に争いが起きる。分かっていような?」

「……ああ」

 ジュリアスの目に青い炎が宿って消えた。厳かに社長が告げる。

「私は人間界の争いには一切関与せぬ。万梨亜を護るのだぞ。その末に天界の神の座がお前を待っている。早く来るがいい」

 社長は舞い散る雪の結晶になって姿を消した。

 ジュリアスはこの先に起こる事を知っているのだろう。真実の眼は見たくも無い未来を見てしまう……。

「あの、王子のお父君は……」

「主神テイロンだ。母のペネロペイアは半分は人間でありながらあの男に愛され、余を生んだ。浮気者のあの男は数多く居る子の中から、何故か余を次の主神に据えようとしている」

「それって……」

 物凄い事なのではないかと言おうとしたが、ジュリアスは深いため息をついた。

「余は普通の農夫でありたい。権力も最高の座もいらぬ。万梨亜……、愛するそなたが余の隣で微笑んでいてくれたらな」

 万梨亜達はふわりと青々とした草が生えている原っぱへ降りた。季節は初夏で爽やかな風が吹き抜けていく。

 万梨亜をジュリアスが想いが溢れた目で見つめた。

「余とそなたは鏡に向かい合うもの同士だ。もう一度聞かせて欲しい。そなたは余を愛しているか?」

「……はい」

「そうではない、名前を言ってもっと明確に言わぬか」

 子供のようにすねるジュリアスに、万梨亜はおかしくなった。

「ジュリアス様、愛しております」

 言った途端、万梨亜はとんでもなく大それた事を口にした気分になり、両手で口を押さえた。何も言わないジュリアスをおそるおそる見上げると、珍しく顔を上気させて目を見開いていた。

「これはちょっと、たまらぬな……」

「王子も、じゃなかった。ジュリアス様もおっしゃってください」

 微笑みながら言うと、ジュリアスも同じように微笑み返してきて、万梨亜を抱き寄せた。

「もちろん余も万梨亜を愛している」

 ジュリアスの胸はとても温かくて気持ちが良く、万梨亜はずっとこうしていたいと思った。だからやさしいジュリアスの背中に両手を回し、万梨亜は離れまいと広い胸に顔を埋めた。くすりと笑うジュリアスの声が耳を掠めた。

「わが君ーっ」

「万梨亜様ーっ、おかえりなさいませ!」

 抱き合う万梨亜達に向かって、懐かしい人達が歓声をあげながら走ってきた……。

【第二章 心の世界 完】

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