願わくは、あなたの風に抱かれて 第11話
それから数日が経った。躬恒からは何の連絡もない。なんとなく空気が荒れている気配がする。かさねの使った力で躬恒が妖の王になったため、他の妖の反発があるのだろう。躬恒の兄を筆頭に、あらたな戦が起こっているのかもしれない。手下の疾風と小桃は相変わらず何も言わず用をこなしているだけなので、また以前のような寂しい生活に戻ってしまった。手遊びに琵琶を弾いてみたが、より一層寂しくなっただけだった。躬恒がいないと何をしてもつまらない。彼には他にも妻が居るというのも気が重い。正妻だという月華は、特に恐ろしく思われた。躬恒より身分が上のような態度だったし、かさねの存在など塵芥のように扱っていた。あんな女が正妻で、躬恒は大丈夫なのだろうか。
寝台に腰を掛けてため息をついていると、戸外に人の気配がした。彼らにはかさねと家は見えないのでいつも通り過ぎていくだけなのに、今日は立ち止まっている。躬恒は人間と接触しないほうが良いと言っていたので、かさねは息を殺した。このまま立ち去ってほしいと思っているところへ、果たして、その人間は家の中へ入ってきた。それは、あの二人組の少年の、身分が低い、あの切れ長の目の少年だった。
かさねは寝台の影から飛び出した。
「こ、ここへ勝手に入るのはまかりなりません!」
少年はかさねが見えているようで、あの日と同じように、目を見開いたが、持っていた竹筒の水を、釜戸へぶちまけた。かさねはそこでやっと今の状況に気づいた。釜戸で煮炊きをしているのをすっかり忘れていた。外に焦げ臭い煙が流れていっている。かさねの寝台の方へ風向きで流れてこなかったので、気づかなかったのだ。
水をすべて掛け終えると、少年は何かを口で唱えた。見ている前で釜戸全体が水でびしょ濡れになり、火事になりかけていた釜戸の火が消えた。
じゅうじゅうと音を立てている釜戸に、かさねは身体の震えが止まらなかった。いかな自分でも火事にはどうすることもできないし、こんなことのために力は使えない。第一幸せとは関係ない、ただの消火活動だ。願いではない。
「山道を歩いていたら狐が現れて、この家を教えてくれました。聞いた途端に家が眼の前に現れたので驚きました」
少年らしい生真面目さを合わせたその声に、かさねは持っていた警戒心を解いた。
「……ここは本来人は来れません」
「だと思います。気が違うし、時の流れも違う」
「?」
「私は、人ならぬ存在が視えるのです。物心が付いた時から」
「もしや、この間も?」
少年は頷いた。目が合ったと思ったのは錯覚ではなかったようだ。
「もう一人の子は?」
「彼には見えませんが、そういう存在が居ることはわかってくれています。不器用ですしぶっきらぼうですが、とても優しい人です」
「そう?」
「大納言様を父にお持ちですが、私にはとても良くしてくれます」
「お友達なのね」
少年は嬉しそうに微笑んだ。
「恐れ多いのですが、友だと手を握ってくださいました」
そう言いながら、少年は再び何かを口で唱えた。濡れていた釜戸が乾いていって、煮炊きができる状態に戻った。
「まあ、凄いわ」
かさねは鍋の蓋を取った。残念ながら中身は焦げたものが入っているだけだった。
「さすがにそこまでは綺麗にできません。第一、洗えばいいだけですしね」
少年が笑った。かさねもおかしくなってきた。
「一緒に洗ってくれる?」
「構いませんよ」
二人は連れ立って近くの小川へ行き、焦げついているものを石でゴシゴシと擦って落とし、仕上げに束子で擦ってきれいにした。
「そう言えばあなた名前は? 私はかさねと言うの」
「もうすぐ元服します。彰親と名乗ることになっています」
「良いお名前ね」
「貴女も」
彰親は不思議な少年で、人間にしては珍しく黄金の光を纏っていた。よほどの徳を積んでいないと人間ではまず黄金は纏えない。でも彼は歴とした人間で、妖ではなかった。彼が先程唱えていたのは、彼が作り出した真言で、それで精霊や式神、妖を使うのだという。彼らは彰親が呼び出すとすっと現れ、事をなし、代償に彰親の金色の気を頂いて帰っていくのだった。
「陰陽師になるため、元服したら陰陽寮へ入ります。祖父がそこで長官をしています」
「私でも知っているわ。安倍晴明というおじいさんでしょう」
「祖父をご存知でしたか?」
「こちらでも有名だもの。もと天文博士で素晴らしい式神の遣い手だとか。そういえばあのおじいさんも黄金の気を持っていたわ」
「も?」
「貴方も黄金だもの」
かさねは褒めたつもりだったのに、彰親はつらそうに唇を噛み締め、俯いた。
岩に立て掛けた鍋は綺麗に乾き、陽はこれから天頂へ向かうところだ。秋の日差しはそこはかとなく寂しさを含んでいたが、かさねはすっかりその寂しさを忘れていた。この顔を見るまでは。
「……どうしたの? 黄金は嫌なの? 他の人には見えないのだから気にしなくても……」
「私以外にも視える人はいます。でも、馬鹿にされるんです。色が同じなだけでお前は妖だ、と」
侮蔑の言葉に利用された「妖」の言葉に、かさねの胸は嫌に痛んだ。言った人間は彰親にあからさまな悪意をぶつけている。そしてこんなに傷ついているということは、彰親本人が一番気にしていることなのだろう。
「妖は、悪い存在なのかしら?」
「そうは思いませんが、たまに悪いのもいます」
「人間だって同じでしょ? 私はずっと見てきたわ。いい人も悪い人もいたわ」
「そんなのわかってます!」
いきなり彰親は立ち上がると、服を着たまま川に飛び込んだ。そしてそのまま泳ぎ始めた。川の流れは穏やかだが、今の季節は水浴びには向かないだろう。いい天気だが夏に比べて寒いのだから。
感情の赴くままに泳ぎ続ける彰親を、かさねはしばらく見つめていた。彼はまだ幼い。自分も幼い。最も尊いと言われる黄金の気を纏っていても、未成熟なのだ。
「ここにいたのか」
探していたのか、木々の間から、もう一人の少年が現れた。彼はかさねが見えていないので、彼女の横を通り過ぎ、泳いでいる彰親を見て驚いたようだった。
「おい! 泳ぐには寒すぎるぞ! 何を考えている。火を熾すから川から上がってこい!」
「冷たい水には慣れています!」
川の真ん中にある岩に捕まり、彰親が言い返す。
「とにかく駄目だ。風邪を引かれたら堪らぬ。もうすぐ元服なのだから、子供っぽい行動は慎むが良い」
少年は重々しく言い、そのへんから乾いた木や落ち葉を集め、身につけている袋から火打ち石を取り出し、手際よく火をおこした。高貴な身分の割には手慣れている。かさねは感心した。
彰親はおとなしく上がってきた。
「どうするのだ。着替えはかなり遠くまで取りに戻らねばないのだぞ」
少年の声に、かさねはとっさに口を開いた。
「私が貸してあげるわ」
「うわ!」
突然現れた若い女性に、少年は目をまんまるにして仰け反った。尻もちを付いた少年を後に、かさねは大急ぎで家へ戻って躬恒の着ていた服を手にし、二人の元に走った。
「だいぶ大きいけれど、濡れている服よりはましよ」
「……ありがとうございます」
差し出された服をおとなしく手に取り、彰親は頭を下げた。
焚き火は気持ちの良い温かさだったので、かさねも当りたかったが、濡れている彰親が優先だ。彰親は着替えると、濡れている服を絞って、焚き火の近くに広げた。少年が言った。
「礼を言う。貴女はこちらにお住まいの方か?」
「かさねと申します。彰親様に火事を消していただきました」
「そうか。私もあの煙を見て来たのだ。山火事にでもなったら大変だからな。私は惇長という」
凛々しいという言葉は、この少年のためにあるような言葉だ。きりりとした眉に石の強そうな口元、視線は鋭く、深い。所作も男らしさに満ちているが野蛮な感じは全くしない。後数年したら、もてはやされる公達になるに違いないだろう。荒々しいものをその瑞々しい体躯に秘め、野心に燃える目を持っている惇長は、魑魅魍魎の棲家と言える、貴族社会を生き抜く強さに満ち溢れていた。一方、彰親は線が細い面持ちで、美しい、麗しいという言葉がしっくりくる。全体的に弱い印象だ。大丈夫なのだろうかと不安になると言うほどのものではないが、ぶれている感じが否めない。
「貴方達は一体何故この山へ来たの? 遊びに来たというふうでもないわ」
かさねが尋ねると、惇長が懐から一枚の書面を取り出して広げた。
「この薬草を探しているのです」
かさねはその薬草を知っていた。
「この草ならこの道を真っ直ぐに行った崖の下にあるわ。貴方方ではとても無理よ。翼でも生えていないと取れないわ」
惇長は落胆したようだった。かさねは笑った。
「大丈夫よ。鷹に頼んであげる。彼の鋭い足の爪なら、草の根本ごと刈り切れるでしょう」
「鷹に、頼む?」
不思議そうに惇長は首を傾げた。彰親は黙ってこちらを見つめている。かさねが両手をぱんぱんと合わせて叩くと、どこからともなく鷹が飛んできて、かさねの立っているすぐそばの木の枝に止まった。
「この草を取ってきて頂戴」
かさねが絵を見せると、鷹はすぐに飛び立っていき、崖の下に消えた。程なくして薬草を足に握って現れ、かさねの胸元へ放った。かさねが礼を言うと、鷹は高く鳴いて彼女の気を少しだけ受け取り、山の奥へ消えていった。
喜んでくれると思ったのに、二人はなぜか難しい顔をしていた。特に彰親は、怒り出さんばかりだ。
「はい。これで山を降りれるわね」
かさねが薬草を惇長に手渡した。惇長は礼を言いながら受け取ったが、難しい顔は変わらない。
「どうしたの? うれしくないの?」
「いや……そうではなく。彰親、お前の目からみてどうなのだ?」
「ぜんぜんよくありませんよ! 愚かなことを!」
何が愚かなのか、何故怒らなければならないのかとかさねが聞こうとした瞬間、かさねは彰親に抱き上げられていた。
「きゃ! な、何するの!」
「倒れる寸前ですよ貴女! 貴女の家へ帰ります」
「大丈夫よいつもの……」
「そんな消えそうな魂の貴女が、鷹ごときに、草ごときに命を預けるなんて! もっと自分を大切にしてください! 私達は人殺し、いえ、善良な妖を殺したくないんですからね!」
ひよわに思えた彰親は、思ったより、いや、思った以上に力があり、軽々とかさねを抱えたまま歩き始めた。惇長は薬草を綺麗な布に包み、それを自分の手荷物の袋に入れて、自分に結びつけた。
「私達を貴女の家へ案内してください。見えませんから」
ぴしゃりと彰親が言い、かさねは結界を解いた。
彰親は、弱そうに見えたが、実は柳の枝のようなしなやかさをもつ、強い男のようだった。しっかりとした足取りで、急な山道をかさねを抱いて歩いていく。躬恒と違うその腕は、なぜかとても安心できる温かさだった。