天使のかたわれ 第46話

 多人数の足音が近づいてくる。今度は猿轡を施された夫妻がおびえる番だった。

 雅明は拳銃をアネモネに手渡して、夫妻に振り返った。

「さあて、お前さんたちは裏の世界でも、掟を破りまくっていたようだな。表の世界だけだったら警察へ連れて行くだけで済むんだが、裏の世界だとそうはいかない。ま、頑張るんだな」

 フリッツが、捕らわれていた少年と女をそれぞれ毛布でくるみながら、両腕に担いできた。

「アウグスト様。用意ができました。この家はもう彼らに引き渡してもいいですか?」

「囚われ人の回収と、この女を始末できたら用はないね」

「死体はどうするんですか?」

「欲しがってる医者崩れがもうすぐ来る。内臓が欲しいんだと」

「ではもう行きましょう」

 大勢のやくざ風の男たちが入って来た。一人が雅明を見、雅明が死体を顎で示すと、いそいそと回収にかかる。

アネモネがソルヴェイのバッグから小切手を取り出し、男たちの頭に手渡した。

「これを回収するなり、さらに増額されるなりご自由に。だけど私たちとはこれきりよ」

「わかってるさ。佐藤と黒の剣とシュレーゲルに楯突く気はないね。だけどあんた……いい女だな」

 アネモネはウインクして笑った。

「残念。夫が居るの」

「ち、つまんねえの」

 男はさほど残念でもなさそうに言い、震え上がる夫妻に向けて舌なめずりした。彼らがどういう運命を辿るのか、雅明達には知ったことではなかった……。

 

 佐藤邸へ戻ると、麻理子が雅明を見て腰を抜かした。雅明にとっては縁起でもないことに、当に死んだと思っていたらしい。執事に呼ばれた貴明が、麻理子を自分の部屋のベッドに横たわらせ、雅明とアネモネを招き入れた。フリッツは少年と女を病院へ連れて行った。

 貴明と雅明は、事のあらましをやっと知らされた麻理子に、恐ろしく罵倒された。

 二人が喧嘩をしたのは、ソルヴェイに化けた女を油断させるためだったこと。あの薔薇の受け渡しが合図になっていたこと。あえて女を泳がせて、日本で彼女が作っていた組織の内部に入る込むため、雅明をおとりにしたこと。なので、見捨てたわけではないということ。

「雅明。お前のせいで僕は麻理子に軽蔑されたんだぞ!」

 あの誘拐事件以来、麻理子は一度も貴明の世話をしに来なかった。美雪や穂高とべったりとはりつき、少しでも近づいてくると睨んだ。事情を知っているナタリーも知らない振りをするため貴明に何もしてくれず、一人で針のむしろだったのだ。

「すまないね麻理子さん。あんたは狸になれないから、打ち明けられなかったんだ。なにしろ素直すぎるし」

「ええそうでしょうね!」

 そして面白くなさそうにアネモネを見た。

「アネモネさん。貴女も貴明にしがみつかないでくれる?」

 アネモネは先ほどから貴明の隣を陣取り、腕に自分の豊満な胸を押し付けている。

「いいじゃありませんか軽蔑してるんでしょ? それに私達、ギリシャから続いている仲なんですもの」

 完全に麻理子はブチ切れた。

「ああそうですの。好き勝手になさいな。こんな男、貴女に熨しつけて差し上げるわ。どーせ私が誘拐されたって無視するような、薄情者なんですからね!」

 貴明が飛び上がった。

「ちょ、ちょっと待て麻理子。そんなわけないだろうが!」

「そうだよ麻理子さん。貴明は麻理子がいなくなったら痴呆青年になるよ」

 雅明も必死に弁護をする。

「その人に介護してもらえばいいんです」

「麻理子ぉ~」

 情けない声を出す貴明に、笑いの渦が巻いた。

 あらかた麻理子の怒りが収まったころ、アネモネが貴明から離れて、言った。

「ヨヒアムの組織はまだ後継者争い中だから様子見として、カナデとメグミをどうするかよ? カナデはあの女から、マサアキに打つ予定だった麻薬を薄めて錠剤にしたものを受け取っていたの。売買データを見ると、もうその薬も途切れているころだわ」

 空気が重くなった。雅明が言った。

「6yhだったな。薄い上、まだ初めて一月も経っていないのなら、薬を抜くのは簡単だ。だが、それなりに辛い断薬症状が出るだろうな」

「貴方には最初っから、媚薬と栄養剤を打ってましたからね」

 アネモネが頷く。

「お前の性交映像を送り続けられて、大変だったんだぞ。何が悲しくて、兄の男同士の性行為を観なきゃならないんだ」

 貴明がげんなりしながら言う。貴明はノーマルな人間なので、男同士の性行為など気持ち悪いだけだ。麻理子もぎょっとしている。アネモネだけがうれしそうにしているのは、免疫があるからなのだろう。

「偽ソルヴェイが単純に騙されてくれて助かった。血液検査されたらたまらないから、医師も買収していたぐらいだ」

 麻理子が遠慮気味に口を挟んだ。

「あのミハエルという子供は……」

「施設に預けたほうがいいな。やはり障害があった」

 ミハエルはアネモネが保護して、医者に診せていた。孤児院から引き取られた赤ん坊だったらしい。もともと話さない子供だったが、知能の欠陥があると診断が出ている。

 夜も深くなって、アネモネと麻理子はそれぞれの部屋へ下がっていった。

 貴明が雅明のグラスにウイスキーを注いだ。

「仙崎からの報告によると、まだ恵美は仙崎の籍に入っていない。父親が頑として許さないそうだ」

「だからあえてこの計画を実行したんだが」

 少しだけグラスに口をつけ、雅明はテーブルの上に置いた。貴明は自分のグラスに注いですぐに半分ほど飲んだ。

「恵美はこの父親にひどく扱われているらしい。家政婦の坂野さんから、早く助けてやってくれと連絡が来ている」 

「今すぐいくか」

 立ち上がりかけた雅明を、貴明が止めた、

「忍び込むようなまねをしなくても、明日会えるさ。向こうから、美雪と穂高と恵美とで食事をさせてはどうかと言ってきた。坂野さんが奏の母親を説得したらしい。だが注意事項があるから、来る前に電話しろとか言っていたぞ」

「あっさりできるもんだな……」

 雅明は拍子抜けした。

「母親は表に出てこないが、われわれの味方なのかもな」

 そう思いながらも、なんらかの罠があるかもしれないと二人は考えた。奏の母親については妙にデータがすくないので、二人がそう思うのも当然だった。

 時計が深夜一時を告げた。

 さすがに外から人の気配は漂ってこない。

「で、だ……。今日、こんなものが郵便物の中にあった」

 貴明が一通の封書を雅明の前に差し出した。

 小川恵美様とある。

 雅明は受け取ってしげしげと字を眺めた。

「へえ、えらい闊達な筆跡だな。男……? 恵美宛にラブレターか? 旧姓でしかも佐藤邸に送ってくるとは勇気あるな」

「差出人を見ろ」

 裏返して雅明は瞠目した。

 そこにあったのは、五年も前に亡くなったはずの男の名前。

 佐藤圭吾と書かれていた。

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