天使のマスカレイド 第44話

 夜に入ったばかりの佐藤邸はにぎやかだった。メイドや従業員達はまだ仕事をしていて照明は明るく、ひっそりとしているのは佐藤の家族が住んでいる独立した棟……プライベートスペースぐらいだ。佑太夫妻は二階、両親である貴明夫妻は一階に住んでいた。その一番北側に将貴の部屋があるのだがそこに将貴が居るのはまれだ。また貴明の再入院に伴って貴明夫妻は不在で、今現在住んでいるのは佑太夫妻とその子供の慶佑の三人だけだった。

「何を考えてる?」

 佑太の声に美留ははっとして顔を上げた。あやしていた慶佑はいつの間にか眠っていた。佑太は読んだ新聞を折りたたみずっと自分を見ていたようだ。

「ちょっとぼうっとしてたの」

「ちょっと……ねえ? 夫婦の時間に美留はよくぼうっとしてるよね。十一年前からさ」

 ハッキリと年月を言われて美留は佑太の言わんとするものを悟った。脳裏に浮かび上がるのは繊細な笑みを浮かべる美麗な御曹司の姿だ。そして二人の間では禁忌に近い存在。何も言えないでいる美留から慶佑を抱き上げ、佑太は雇っている乳母を呼んだ。すぐに現れた乳母がうやうやしく慶佑を抱き取って部屋から出て行く。一緒に出て行きたい気持ちに美留は駆られたが、そんな真似をしたら佑太が悪くなるのがわかっていたのでソファに座ったまま身じろぎもしなかった。ドアが閉まると佑太が美留の隣に座って彼女を横抱きにした。

「兄さんさ、あの結城さんとくっついたそうだけど、あんなののどこが良かったんだか。美留とは全然違うタイプだよね? 色気なしだし平凡すぎるしさ」

「……そんな言い方良くないわ」

「そう? ま、義理の姉になる人だから仲良くはしておきたいよね。ぞっとしないけど」

「ぞっと……て……」

 夫の毒舌は慣れっこになっていても、これはあんまりだと美留は思う。千歳は誰もが出来なかった事……、将貴の病気を治して社会に適応させてくれたというのに。佑太はいつもそうだが、兄に関わる人間には口調がさらに辛らつになる。非難がましさが目に出たらしく、佑太の黒い眼がきらりと光った。

「ふん、良かったじゃないか。兄さんの相手がどこかの美しい御令嬢なんかじゃなくて。美留もコンプレックスが刺激されなくて済むんじゃないの?」

「何の事を言っているのかわからないわ」

 自分の腰に絡まっている雄太の腕を乱暴に振りほどいて美留はソファからたちあがろうとした。しかし佑太がそうはさせてくれず、そのままソファに押し倒されてしまう。欲に染まった夫の眼を見て美留はため息をついた。

「疲れてるから嫌よ」

「出産から何ヶ月経つのさ? 乳母もいるし何を疲れてるのやら……」

「仕事してないから疲れるなっていうの? 嫌だって言ってるでしょ!」

 服を脱がしにかかってくる佑太の顔を美留は引っぱたいた。大人しげに見えても美留の本質は大人しくは無い。嫌だと思ったら相手が誰でも関係なく拒絶するのだ。だが今日の佑太は止めてくれない。いやらしい手つきで肌蹴た部分を撫で回しながら、妙に乾いた笑い声を立てた。

「残念だけどお前の夫はこの僕なんだ。いい加減に兄さんを思い浮かべるのは止めて欲しいものだね」

「そんな事してないって言ってるじゃないの!」

「本気でばれてないと思ってんだな、お前はさ……。僕は知ってるんだ、お前がこの十一年間どうやって過ごしてきたかなんてお見通しなんだぞ」

「何を……うぅっ」

 不意に足の付け根に佑太の指がつきたてられて、美留は身体を強張らせた。

「一体どうしたら兄さんをお前の心から追い出せるのかな。いつまでもうっとうしい」

 佑太は美留を弄るのを止め、そっと静かに抱きしめた。美留は何も言えずそのまま抱きしめられるに任せた。何を言っても将貴の話になると佑太は美留を信用しない。この十一年何度も繰り返されてきたこの話題はいつも美留の心を複雑にさせ後ろめたい気分で一杯にするのだ。

(きっとこれが……、自分勝手で我侭な私へ神様が下された罰なんだわ)

 自分の取った行動や言葉がどれだけ将貴を傷つけたのかわかっている。だが美留は佑太を選んだのだ。それなのに肝心の佑太がそれを信じてくれないのだ……。

 一旦止まった佑太の愛撫が再開し、先ほどより深くなった。今夜は受け入れたほうがいいだろう。涙を堪えているのを気付かれないように、美留はその罪の意識を飲み込んだ。

 

 仕事だけではない疲れでくたびれきった千歳はアパートに帰り、ほーっと安堵の息をついた。誰もいない部屋はとても落ち着くし安心できる。自分の荷物と将貴の荷物を一緒にされてしまったために物置部屋になってしまった自分の部屋を通り過ぎて将貴の部屋に入り、とにかく横になりたくて押入れにしまってある布団を敷いて横になった。

「あーっ生き返る」

 ふんわりした布団の感触が気持ち良い。この後は将貴とスーパーへ行く予定になっているがまだ将貴は帰ってこない。ちょっと休もう。

 言いがかりのような中傷がなりを潜めたばかりなのに、今度は別の注目を浴びて千歳は困っていた。今日ほど廊下に面した品質管理課の窓を呪った日は無い。まるで観察されるモルモットの気分だった。品質管理室は従業員出口に繋がる廊下を事務所と挟んでいる。窓越しに事務所の社員や廊下を通り過ぎるパートのおばちゃん達に一日中じろじろと見られ、千歳は心の中で無視だ無視無視と呪文のように唱えて書類作成に勤しんだ。いつものように「作業してるんだ」とスルーしてはもらえず、芸能人たちはこういう視線に耐え難いから普段は変装しているのだなと変な共感を覚えるほどだ。

 時々赤塚が気を使ってその連中をじろりと睨んでくれたのだが、やっぱり忙しい彼女はしょっちゅう席を外していなくなった。だから結局千歳は皆の視線で針刺し状態になるしかなかった。

 原因は将貴だ。

 正月の多忙な時期がひと段落着いた今日、工場の社員を集めて朝礼を行ったのはいい。自分が心因性失声症を患っていたさまざまな事情から佐藤将貴である事を伏せて、石川将貴を名乗っていたのを謝罪したのもいい。工場長と管理部部長を兼任していたのを白状して、管理部と工場長は対等であるべきだという事を話して工場長を辞任して管理部部長になるのを宣言したのもいい。工場長の後任に福沢篤志を指名したのも構わない。パートやアルバイトや普通の社員には特に気になる分野でもないし(多分)、今まで二人の経営で工場がここまできたという実績があるのだから特に反対意見が出るわけもなかった。

 隠し事を白状したのは良い事だと思う。騙していたのを謝罪するのはもっともだ。しかし何でそれがプライベートに及んで、いきなりみんなの前で「結城千歳さんと近いうちに結婚する」と発表してしまう事になるのだ!

 その瞬間、ざわめきと悲鳴が沸き起こってその場にいた50名ほどの視線が千歳に集中し、千歳は誰かの背に隠れることも出来ずその視線の矢で射抜かれて死ぬかと思った。確かに結婚には承諾した。でもこの発表の仕方はない。第一、佐藤の家の両親達の承諾は得たのだろうか。

「あの大人しそうな人がねえ……」

「あの佐藤部長と結城さんって……なんか全然つりあってないわよね」

 お祝いの言葉や拍手が鳴り止まない一方でこんな言葉が案の定ちらほらと聞こえる。予想通りなので傷ついたりしない。しかしいささか人数が多すぎる……。

 朝礼はすぐ解散になった。それから皆が千歳を見る品定めの視線が痛い。事務所の矢野などは好奇心一杯に目を爛々と輝かせて、事の馴れ初めを聞いてきたりするから困った。話せるわけが無いしノーコメントを貫くしかない。アパートでは夫婦として暮らしているとは言えないし、そうなるともうぐちゃぐちゃで何がなんやらどうにかしてほしいとわけもなく叫びたくなる。アパートの近所に従業員が住んでいなくて本当に幸いだ。だがばれるのも時間の問題だろう。あの美しい将貴が素顔を晒し始めた頃から、この小さな田舎町で行く先々注目を浴びまくっているのだから。

 玄関のドアが開く音がして、帰宅した将貴が部屋の引き戸を開けて入ってきた。

「お疲れ様。布団で寝るには気が早いんじゃないの?」

「……疲れてるのよ。買い物には行くの?」

「そのために早く帰ってきたんだけど。疲れてるんなら俺一人で適当に買ってくるよ」

 千歳は布団からもぞもぞと這い出て、綺麗に布団を畳みなおした。そしてコートを羽織って将貴のクラウンに乗り込んだ。

 雪が今日はあまり降っていなかったので、朝になると凍り付いて危険な雪も夕方の今の時間帯は霙のようになっており、将貴も対向車もそれほどスピードをセーブせずに走っていた。しかし例の陸橋付近はやはり渋滞していて、何回も信号を見送ってのろのろと進んだ。ちらりと千歳は将貴を横目で見た。車のライトに照らされて見える将貴は相変わらず綺麗ですましている。こっちはとんでもない気疲れをしているのにとぶわりと不満が沸いた。

「なんだって朝礼で交際の事を話したんです? それにご両親に承諾は……」

「母さんも父さんも既に了承済みだ。あの盗聴器を仕掛けた時点でね」

「どういう事?」

 進行する側の信号が青に変わり、少しだけクラウンは前へ進んだが直ぐに信号は赤に変わった。あと2回ほどは見送らなければならないだろう。雪道になれていない運送トラックがスタッドレスやスノータイヤを嵌めずに普通タイヤでのろのろと走っているせいだ。

「プライベートを侵害しているのを承知して言うと、うちに関係してしまうと、特に家族に関わるほどGPSの数は増えるね確実に。盗聴は大切な人にだけに限られる。それほど狙われやすいんだようちは」

「……なんか犯罪でも手を染めてるんですか?」

「してなくても大金と繋がっているからな。冷たい言い方をするとどうでもいい人間にはそんな手間はかけない。第二情報部も暇じゃないし」

「私達の会話は筒抜けなんですか?」

「慣れてくるとオンオフが簡単にできるようになる。千歳はスマートフォンを別の場所に置いておくだけでいい」

「それを聞いて安心しました」

 常に会話を聞かれているなんて冗談ではない。将貴はそれには同意だとうなずいた。

「……俺達のプライベートを握っている第二情報部がそれを外部に漏らしたら……どうなるかわかる?」

「えっと……」

 なんだか真っ黒なものが襲い掛かってくるような心地がして、千歳は人差し指で頬を引っかいた。押し殺した声で将貴は笑った。

「とっても怖い事になるそうだよ。精神安定の為にどうなるかは言わないけどね。ま、金と権力が集まっているところに住んでいるとろくな事にはならないよ」

「そうみたいですねぇ……」

 やっと信号の前までクラウンはたどり着き、陸橋に向かって真っ直ぐに進んだ。ここを越えたらスーパーは直ぐだ。すいすいと進んでいくのは気持ちが良い。夕方の混雑の時間を過ぎたスーパーの駐車場は停まっている車はまばらで、適当な場所に将貴は車を停めた。

 降りようとした千歳は、同じようにシートベルトを外した将貴にふいに抱き寄せられた。いくら外が暗くて車内が見えづらいといっても、これは大胆ではないかと千歳は思った。

「あ……の」

「嫌?」

「家でなら構いませんが」

「そうじゃなくて、佐藤将貴と結婚するのは嫌?」

 不安が滲んでいる将貴の声に千歳は胸の中で微笑した。

「いやだったらとっくに逃げてます。一件が済んでから妨害してくれるガードマンの人達や陽輔さん、朝子さんもいませんからね」

「佐藤邸に住んでいればまだいいのかもしれないけど……」

 ぎゅうっと強く抱きしめられて、会社の誰かが見ていやしないか千歳はそれだけが心配だった。身体を許してから格段にこうされるのが増えた。まるで今まで触れなかった分を取り戻すかのように会社以外では将貴は千歳に引っ付いていたがった。

「私は豪邸に住みたいわけじゃないんです。でも御曹司の将貴さんをどうこうも、もう思いません。将貴さんは将貴さんですから……」

「うん」

「私の方が申し訳ないんです。勘当されているから……それが将貴さんを傷つけやしないか心配です」

 天涯孤独なのに家族はいる。それが世間の嘲笑の的になるのを千歳は恐れている。愛する人が自分のせいで後ろ指を指されるのが辛い。将貴がぽんぽんと千歳の頭を軽く叩いて優しくなでてくれた。

「俺の過去の恥の方がよっぽど千歳に傷つけないか心配だよ。でも過去は消せないから未来のこれからの行動で人に認めさせるしかないよね? 千歳は俺を救ってくれた、それだけで俺は千歳を誇りに思うよ」

 近づいてきた将貴の唇が軽く千歳の唇に触れた。これは本当に人目にはやばい。千歳は将貴を押しのけて周囲を見回したが、車の窓越しには少なくとも自分達に注目している人間はいなかった。

「いくらなんでも、こんなところで……もう!」

 顔を赤くする千歳に、将貴が楽しそうな笑い声を立てた。

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