天の園 地の楽園 第2部 第11話

 嵐の時間が過ぎた恵美は、圭吾がさっさと出て行った後も、長い間ぼさぼさの髪のままでぼんやりとしていた。精神的なショックがきつすぎて、胸にぽっかりと穴が空き、何かを考えようとするとその穴からすべて出て行ってしまう。
「…………っ」
 身じろぎした拍子にどろりとしたものが股から溢れ、ぎくりと身体を震わせた。圭吾は避妊もなしに恵美を抱いたのだ。
 汚い。
 その言葉だけが頭に浮かび、恵美はもう貴明には本当に会えないなと思った。こんなに汚い自分が貴明の傍に行く権利などない。貴明はあんなに注意していたのに自分はそれを怠ったのだから、こんな事をされたのは当たり前だとさえ思った。
「ふふ……」
 不思議な事に何故か笑えてきた。考えてみたら本当に滑稽な人生だ。誰の血をひいているのか分からない自分があの両親に大切に育てられ、普通の生活を手に入れて幸せだったが、ある日両親はやくざの息子の車にぶつかられて死んだ。それを助けてくれた貴明に恋をして、なんとか普通に大学生になったかと思ったら今はこの有様だ。
「ははは……ふふ」
 笑いながら恵美は泣いた。きっと自分はろくでもない人間の血を引いているに違いない。だから神が見せしめにこんなふうに身の程を知らせるのかもしれない。こんな時に笑っていられるなんて狂人の子供だきっと、と恵美は思いながら起き上がった。腰はとてもだるいが起き上がれるし歩けそうだ。
「私ってどれだけなんだろ。こんな時にシャワー浴びようなんて思えるなんて……ははっ」
 ふらふらと歩いて、恵美は勝手に部屋の奥にあるバスルームの様な雰囲気が漂っているガラス戸を開けた。するとやっぱりそうで、広い脱衣所の奥に大きなバスがあった。恵美は勝手に入り、シャワーのお湯を全開にした。
「平気だー……。凄いわ私ってば。普通に髪洗えるもん」
 高価そうなガラス瓶に入っているものを勝手に手を出し、それがボディソープだとわかると、それで恵美は全身の汚れをこすりはじめた。それはまるで圭吾の痕跡を消す様な乱暴なもので、赤くなったその部分が痛み出したが恵美は気にしなかった。気が済むまでこすりあげると全部湯で洗い流し、シャワーのコックを閉めた。脱衣所に出た恵美は置かれていたタオルで勝手に身体を拭き、ドライヤーで髪を乾かした。そしてベッドに戻り、散らかされ放置されたままになっていた衣類を手早く身につけた。
「大丈夫、大丈夫。汚れてるけどあの男以外にはわからないもの」
 唇を震わせて笑いながら、恵美は呪文のように自分に言い聞かせた。やがて何も言えなくなった恵美は震えながら部屋の隅に座り込み、膝を抱きかかえて頭をくっつけた。大丈夫だ。もう何にも起きないから。これ以上怖い事なんて起こらない絶対に……。
 ぶるぶる震える恵美は、幼子のようだった。
「……ごめんね、貴明ごめんね」

 一方、圭吾は社長室に入ったところで、会長である妻のナタリーと鉢合わせした。
「……今日は出かけたのではなかったのか?」
 一瞬足を止めた圭吾だったが、何事もなかったように席に着いた。ナタリーは貴明そっくりの美貌を冷たく凍りつかせ、圭吾の机の前に腕を組んで立った。
「今度は猫の相手をしたの? 頬の傷をなんとかしてちょうだい。みっともないったらありゃしないわ」
「貴明が飼っていた猫だ」
「何ですって?」
 ナタリーの青緑色の目が見開かれた。圭吾は椅子の背もたれにもたれ、さもおかしそうに含み笑いをした。
「小川恵美という猫だ。お前の調べたとおり生まれは最悪だが、身体は極上品だな、あれほどの身体を持っていたなら貴明も簡単に落とせるだろう」
「……貴明とは別れると言ったの?」
「ああ。しばらくは私が飼うが」
 ナタリーに叩かれた机が悲鳴をあげた。
「冗談じゃないわ! 愛人を飼うのなら屋敷の外にして」
「駄目だ。外に置いたら貴明がまたやってくる……」
「こんな事、貴明が知ったら」
「知ればいいさ。他の男を受け入れた女をあれが許すかな」
「圭吾」
 圭吾は火のついていない煙草を唇で転がした。
「……私は他の男が抱いた女だろうがかまわん。あの女と同じで私も生まれは粗悪だからな。毛並みのいいお前には手も触れないから安心したらいい。お前との約束は守っているのだから、あの猫を飼うくらい多めに見ろ」
 複雑な表情を隠さないナタリーに圭吾は内心胸がすく思いだ。おそらく勘のいいナタリーは公子がうそをついていたのを見抜いている。それをごり押しで別れさせる為に圭吾を使ったのだから、罪悪感がわかない筈がない。
「わざわざ出向いてやったんだ。楽しんで何が悪い……」
 恵美には男をたらしこむ計算のある動きなど何もなかった。貴明がその気のない恵美を強引に女にしたのだろうと、抱いた時にあっさりと圭吾はわかった。どうやらナタリーは、圭吾が恵美を手篭めにしたのを怒っているらしい。同意ではない性行為を同じ女で許せるわけがない。
「圭吾、私は……」
「わかっているから言わなくてもいい。ともかくあの猫は私が引き受ける。お前は失恋した貴明をなんとかまともな人間にするんだな。そのために私は社長をやっているのだから」
 暗に圭吾は、お前が愛しているのは自分の子供だけだろうと皮肉っている。
「……そうね」
 これほどの嫌味を言われたら大概の女は狼狽するが、佐藤ナタリーは違った。貴明よりもさらに冷たい笑みを美しい顔に浮かべ、全ては任せると言って部屋を出て行った。圭吾は煙草に火をつけようとして、自分の手から漂ってきた甘い匂いに気づいた。
「小川恵美……、か」
 恵美の姿を思い描いた圭吾は、彼女が恋したあの魅力的な笑みを浮かべていた。