雪のように舞う桜の中で 第06話

 初夏に入ってから、じわりと汗ばむ日が続いていた。

 珠子は扇を静かに煽ぎながら、早く目当ての場所へつかないかとばかり考えていた。いくら珍しい野趣あふれる山中でも、そればかり見ていると飽きてしまう。

 出発した頃は、御簾越しに外の様子が見えるのがとても楽しかった。

 朱雀大路では沢山の人々が行き来しているのが見られ、都を出てからは、新緑の時期に入った木々や流れる川、空気が清々しく、御簾内でずっと暮らしていた珠子には生き返る心地だった。

 しかし。

 がたがたとまた牛車が揺れ、珠子は扇で顔を隠してため息をついた。

 もうどれほどこれを我慢しているだろうか。 

 牛車の、身動きが出来ない窮屈さと、揺れる車内には鬱々としてしまう。

 一条や惇長には慣れている乗り物でも、初めて乗る珠子には居心地の悪い、面倒くさい乗り物だ。

 またため息をついた珠子に、

「お疲れですか? 馬で走るとすぐに着くのですが、さすがに貴女を担いで走るわけにも参りませんのでね」

 と、珍しく、惇長が優しく気遣ってくれた。

 珠子は飽き飽きしているのに、御簾越しに外を見た。従者が周囲に目を配りながら、牛車の前後についており、お忍びとはいえ物々しい雰囲気だ。

 珠子達以外にも、貴族や下人、商人達が逢坂の関へ向かう山道を行き来している。当然そういう一行を狙う盗賊達が狙っているため、惇長は手利きの従者を少人数ながら引き連れているのだ。

 一行は、近江国にある、石山寺へ向かっていた。

 石山寺には福徳や厄除け、安産などに、霊験あらたかだという如意輪観世音菩薩像が祀られていて、貴族達、特に婦人達の信望が厚いのだという。

 前を走っている網代車も、同じ行き先らしい。珠子達はしなかったが、見る車はどれも袿の裾を零し、その襲の色合いが鮮やかに美しかった。

 もうすぐ逢坂の関だ。

 そこで休憩を取ると聞いていた珠子は、外の従者達の会話を聞き取り、少しだけ気を持ち直した。

 逢坂の関は山城国と近江国の国境にあり、東海道と東山道(後の中山道)に分かれる関所でもある。

「貴女はよくご辛抱されている。歩いた方が楽だと思われるかもしれませんが、山道は、貴女の思う以上に辛いものですからね……」

 惇長の労うような微笑に、珠子は自分の子供のような振る舞いが恥ずかしくなり、再び扇で顔を隠した。

 今朝から惇長が妙に優しい。

 初夜から一週間以上放置したのち、惇長は毎夜のごとく珠子の元へ渡ってくれるようになった。

 痛いだけだと思っていた逢瀬も、たまらなく狂おしい甘さに変わり、それに溺れる自分の業の深さに最近の珠子は慄いている。

 あの閨での激しさはどこへやら、今の惇長はいくらか身をやつしているとはいえ、何処から見ても穏やかな公達ぶりで、珠子は胸が熱くなるのを感じていた。

 惹かれてはならないと、懸命に自分を戒めても、あの時の情熱を、その身のうちに秘めているのだと思うと、どうしようもなく惹かれて行ってしまう。

「何か珍しいものがあったのですか? だるいから歩きたいだけではなさそうだ 」

「さっき綺麗な木の枝があったの。紫の小さな花が沢山ぶら下がっていたわ、私、あんな涼やかな甘い匂い初めて」

「野生の藤か。うちの邸にも藤棚はあるのですが。……そうですね、珠子の局の庭先は撫子を植えていますから、その時代わりにお楽しみなさい」

「夏にならないと楽しめないのね。それに藤が見れないのは残念だわ」

「皆見たいだなんて、贅沢ですね」

 反省したばかりなのに、珠子はまた子供のように文句を言ってしまい、惇長に笑われてしまうのだった。

 また、車がぐらりと傾いた。

 山の中だけに悪路なのだろう。地面が揺れる経験がない珠子には、牛車は辛い乗り物だ。はしたないと思っていても、どうしても不満がお腹の底から沸いてきて、顔に出てしまうのだった。

 惇長によると、この辺りはまだ整備されている方なのだという。

「帰りたくなってきたわ……」

「わがままはおよしになってくださいませ」

 一条がたしなめた。

「今日、石山のお寺の近くの邸に泊まります。牛車もあと半日の辛抱ですよ」

 惇長は慰めるつもりで言ったのだろうが、珠子はあと半日も牛車に揺られるのだと知り、心底がっかりした。

 道幅が急に広くなり、旅装束の人々や、沢山の車が止まっている場所へ出た。

 逢坂の関だ。

 人々は、いかにも身分有りげな貴族が身をやつしたと思われる、惇長の網代車に、一体どなたの一行だろうかと噂しあっていた。

 石山寺の近くにある宿泊予定の豪族の邸に着いた時、夕刻にはまだ時間が有る頃だというのに、比叡の高い山並みに陽は遮られ、辺りはかなり薄暗かった。

 慣れない牛車に丸一日揺られていた珠子は疲れ果て、惇長に抱きかかえられて牛車を降り、豪勢な邸の局に入った。

 邸は贅が尽くされており、庭の清々しく整えられている松の根本に、緑白色の釉薬のかかった龜が置かれていたりした。そんな高価なものを置いて盗まれやしないかと、こちらが心配になるくらいだ。警備に自信があるうえ、すぐに新しい龜が置けるほど財が潤沢なのだろう。

 すこし変わった主らしかった。

「夕餉はいかがされますか」

 珠子を抱きかかえたまま畳に座った惇長に、一条が聞いた。

 灯りが灯された室内は明るい。

「珠子は疲れているようだから、軽いもので良いだろう。くだもの(注:この時代では、果実のほかに揚げ菓子も指す)でもあるといいのだが」

「びわがあると家人が言っておりました。でもここの主はお喋りですね」

 惇長は困ったように笑って同意した。

 先ほどまで邸の主がここに居座って、べらべらと龜や庭の自慢をしまくり、三人共かなり疲れているのに中々腰をあげてくれなくて閉口していたのだ。

 家司と思われる男が頃合いを見て声を掛けなければ、今もその自慢話が続いていたと思われる。主以外はしっかりしているらしい。

 おそらくあの主は、明日から、自分の邸に左近衛大将惇長の君が泊まったのだと、自慢の一つにつけ加えるのだろう。

 神と同様にとられる主上に目通りが叶う、惇長のような大貴族が自分の邸に泊まったのだ。主が自慢しても無理の無い話ではあった。 

「お前も疲れただろうから、膳を持ってきたらお下がり。明日は珠子と私だけで参拝するから自由にするといい。実家も近くだろう?」

「ありがとうございます」

 一条は近江の堅田一帯を支配している豪族の娘だ。本来なら左団扇でお姫様暮らしができる身分で、物の怪邸に住んでいた珠子とは違って全てに恵まれた生い立ちなのに、わけがあって女房勤めをしているのだった。

 お互いに気心もしれており、才気も有る美しい彼女を惇長は頼りにしていた。

 世間知らずで突飛な発言や行動を取ろうとする珠子を、上手くたしなめて懐柔している辺りも、さすがだと満足している。

 この契約結婚も彼女がいなければ考えもしなかったと、惇長は思う。

 一条が膳の用意をするために下がると、惇長は自分の胸に凭れて、ぐったりとしている珠子の黒髪を優しく撫でた。

「珠子、明日は寺に参りますが、よろしいですか?」

「はい……」

「食事をとったら、歌でも詠んでみましょうか」

 このひと月ほどの間で、珠子の歌はかなり上達した。一条の薫陶の賜だ。でも、とても今そんな気分にはなれず、珠子は弱々しく首を横に振った。

「無理です、寝たい……」

「そうとうお疲れなんですね」

 常になく優しい惇長に、珠子は朝から温かく癒されている。髪を撫でてくれる大きな手が、こんなに好ましく思える日が来るとは、初夜の夜には想像もしなかった。

 今まで惇長は、夜に彼女を抱きにくるだけで余り話をしなかった。

 一条が言っていた、口下手な男だというのは本当だった。会話の代わりに、いつも身体中を激しく愛撫されて突き上げられて翻弄され、余りの激しさにいつも珠子は途中で気をやってしまい、翌朝、恥ずかしそうに惇長を見上げるのだった。

 その恥じらうさまが可憐で、また惇長に火をつけているのを珠子は知らない。

 もっと話したいと思うのに、珠子は眠くて仕方がなかった。とろとろと瞼が閉じていってしまう。

「明日は参拝の後、湖で舟遊びをしましょう」

「…………」

「珠子?」

 惇長は、眠った珠子を静かに畳の上に横たえ、袿を脱がせて彼女の首から下を覆ってやった。

 そこへ、膳を持った一条が御簾を上げて入ってきた。

「あら、もう珠子様はお休みですか」

「珠子にとっては初めての旅だから、私達より疲れたのだろう」

「山道を歩きたいなどと申された時は、どうしようかと思いました」

 一条はぶつぶつ言いながら惇長の前に膳を設えた。そして珠子のそばにいざり、乱れている黒髪を丁寧に整え、髪箱に入れた。

「詔子(しょうこ)様の香が香るようですよ」

「それは重畳」

「このようにまだお若い方に、惇長様は残酷なことをされますね、もし……」

 続けようとした一条は、血も涙もない天上人に戻った惇長に、鋭く睨まれて口をつぐんだ。

「お前は私に従っていたらいい。このことに関しては口を挟ませぬ。わかったか」

「……出過ぎた口を致しました」

 膝を正して一条は両手をついた。その彼女に、さらに惇長の追い討ちがかかった。

「いずれいろいろな現象が生ずるだろうが、お前は珠子には知らぬ存ぜぬを通すんだ。そうでないとすべてが無駄になる」

「はい……」

 一条が下がると、食欲が失せた惇長は膳を押し下げた。

 御簾越しの月の光が、妙に明るく感じられる。

 どこからともなく、湖特有の優しい静けさが漂い、それが惇長の罪を責めるようで、苛立ちが増して眠れそうもない。

 惇長は狩衣を脱いで珠子の隣に寄り添って伏した。珠子はぐっすり眠っている。

 その珠子の長い黒髪の手触りを楽しむように、指を差し入れてさらさらと梳くと、とても気持ちがいい。こんな見事な黒髪を持つ女は初めてで、ついついいつも梳いてしまう。共寝するとこうするのが当たり前になっていた。

 珠子と期限付きの結婚をしてから、惇長は他の女人に目が行かなくなってしまった。付き人の由綱などは不気味がっている。

 酒でも飲んだら眠れるのかもしれない。

 しかし、明日、寺へ参詣するというのに精進をしないのは考え物だ。そう考えて、この私が精進かと惇長は自嘲してしまう。もうとっくにこの手は罪で汚れきっていて、精進などした所で拭い去るなど不可能だというのに。

 無邪気な寝顔を見せている珠子に、惇長は自分の犯している罪の深さを噛み締めた。

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