雪のように舞う桜の中で 第26話

 厳重な人払いがされた。

 撫子の御方は気分が優れず暗い顔だった。珠子の兄の美徳に対しての約束が守れなかったのと、次から次へと起こる自分の殿舎での不手際が腹立たしいのである。中務も同じように思っているらしい。惇長は宙の一点を見つめたままだ。

 撫子の御方が事の次第を知ったのは、宴があけた明朝とも言うべき時刻で、珠子が行方知れずになってから何刻も過ぎた後だった。

 一条は、ずっと珠子を探し回っていたのだが、見つかったのは、局に戻っていた猫の桜だけだったのだと言う。

 事情を詳しく聞くなり、惇長は彰親や腹心の部下と短時間で話し合い、この件は他言無用で届けを出す必要はないと言い放ち、その場に居合わせた数人の女房に、固く口止めをした。

 女房が行方不明になったなどという不祥事は、撫子の御方の評判ばかりか、左大臣の立場まで悪くしかねない事柄なのだ。

「どうしてすぐ連絡しなかったの?」

「宴の最中にこのようなことは申せませぬ。ましてや、主上や中宮がおいであそばすところへ……」

「急を要している場合は別よ。なんてことかしら」

 中務は残念そうに首を横に振った。

 惇長は一言も一条を責めない。それは珠子を適当に思っているからではない。むしろ逆で、大切に思っているからこそ黙っているのだ。

 一条にはそれが一番堪えるのだった。

 人払いがされているのに、誰かが近づいてくる気配がした。

「由綱の遣いです」

 由綱とは、惇長の腹心ともいえる、頼りになる随身だ。

 中務が立ち上がろうとするのを押しとどめ、惇長が出て行く。やって来たのは女官で、はたして、惇長を随身の由綱が呼んでいると言う伝言だった。小半刻も経たずに惇長は戻ってきた。

「居所がわかりました。中将は右大臣邸にいるらしい。昨夜、後宮から車が出たのは一輌のみ、麗景殿から、成時の君が妙齢の女房を連れ出すのを見た者がいる。どうやら中将の命の危険はないようです」

「どうしてそれが中将だとわかるの? まだこの内裏にいるかもしれないわ」

 撫子の御方の言葉はもっともだ。

 惇長は懐から帖紙を取り出し、ぼろぼろの紙に包まれた梅の押し花を、撫子の御方に見せた。

 一条はそれに見覚えがあり、息を飲んだ。

「女房の懐からこれが落ちたそうです。これは私が中将にやった押し花と手紙です。ずいぶん草臥れていたのでごみだと思ったのか、気づかずにいたのかはわかりませんが。麗景殿は先の右府の娘である皇后のお住まいで、成時の君は皇后の実弟、そこに居てもなんら不思議ではありません」

「どういうことなの? なぜあの御方が中将を攫う必要があるのかしら」

「成時の君は、中将に興味を持っていたし恋文を送っていたようだ。どちらにせよ香炉の犯人と繋がっているのは確実、検非違使には届けられません。左府に繋がる不祥事をあぶりだす結果になれば、話はややこしい事になる。先年の政変の余波が残る今では危険すぎます。主犯が別の一族でも、芋づるのように兄が引かれてしまうのは避けねば……」

 惇長も撫子の御方も、この事件が諸刃の剣となるのを恐れていた。

 身内の騒動は、決して表に出してはならない。

 今、左大臣家が栄えているが、政事の殿堂を追いやられた前の右大臣一派も、そのほかの朝臣達も、皆虎視眈々と左大臣家の弱点を探しているのだ。

「いずれにせよ……」

 惇長が一条にいざり寄り、優しく肩を撫でた。

「お前と中将が、いかに気をつけていたとしても起こったであろうよ。責があるとすれば私と撫子の御方にもある。もっと気をつける方法はあったはずなのだから」

「ですが」

「とにかく休め。我々が戻るまでお前は一人で探していたのだからな。仮眠もなしに夜通し探すなど身体に障る。中務」

 呼ばれた中務は心得たように頷き、一条を無理やり立ち上がらせて彼女の局へ引き連れていった。

 二人きりになると、撫子の御方がくすくす笑った。惇長が睨めばさらに笑いは深くなった。

「……お優しくおなりだこと。うれしいわ」

「寝込まれたら迷惑至極。またあらたな面倒ごとが沸き起こるでしょう」

「相変わらず素直でない方。ところで、どうして裏に義行の中納言が絡んでいると思うのです? 内裏が嫌になった中将が、成時の君に頼んで出て行ったのかもしれませんのよ?」

「中将は無責任な女ではありませんから、嫌になって突然帰るなどしません。ましてや、初対面の男に頼みごとなどできる性格ではない」

「……そうね、それは私もそう思います。ではどのような理由で?」

「あの猫の行動です」

「……あの猫は式神なのでしょう? 中将を守る為の存在なのに」

「式神であっても弱点はございますれば。聞くところによると、憑かれたように鼠を追いかけていったとか」

 惇長は、火桶の傍で丸くなっていた桜を抱き、そっと撫子の御方の前へ促した。

 普通の猫ではなく彰親の式神である桜は、大人しく撫子の御方の元まで歩き、撫子の御方は桜を抱き上げた。

 嗅ぎ慣れない香が鼻についた。

「彰親が、それは式神を操る香だと言いました。桜は操られたのです」

「こんな香り、聞いた覚えがないわ……。中将が使っていた紅梅の匂いに、確かに何か混ざっているわね。……妙に甘いわ」

「大分薄れておりますゆえ毒はないですが、特定の式神に術を掛ける際に調合されるものだそうです。もっともそういった類の香は他にもあるそうですが、これを調合できるのはこの世でたった二人。彰親と彼の兄だけとの事」

 惇長が極端に声を顰め、撫子の御方の声も自然に小さくなった。

「陰陽頭がやったのね。間の抜けた罠だこと。かかった私達はもっと間抜けだけれど」

「そう思います。ですが、わざとかもしれません」

「一体何が狙いなのかしら」

「成時の君は中将自身を。熱心に文をやっていたそうですから。そして、中納言と陰陽頭は翠野の奏者としての中将を、と言ったところでしょう」

「中将が心配です。無体な真似をされなければ良いけれど」

「さすがに成時の君が許さないでしょう。その辺りがどうも解せません。珠子が邪魔ならさっさと消せたはずなのに、なぜ成時の君と手を組んだのか」

「中納言は気が弱い男だから……」

 途中まで言ったところで、撫子の御方はふとあることに思い当たり、扇を静かに下ろした。

「……それについては主上が関係していると思います。何かの折に伺ってください」

「主上が? どうして……?」

「私も東宮から伺っただけですのでくわしくは話せません。内密の話なのに中納言が知っているのは、陰陽頭が漏らしたからなのでしょう。あの者は頭失格ですね。左府に伝えなくては……」

「…………」

「命の心配はありませんが、中将が辛い思いをされるのは間違いありません。早く助けてあげてください。で? 私は何をすればよろしいのかしら?」

 気を取られていた惇長は、ふっと意識を取り戻した。

 そうだ、今は心乱れている場合ではない。

「……この匂いを漂わせて居る者が、淑景舎に必ず居るはずです。お探しいただけますか?」

 暗い雰囲気が漂う中、桜だけがのんびりと細く鳴いた。

 

 珠子は困惑していた。

 昨日、成時に抱きしめられて無性に眠たくなって寝てしまい、起きたら見知らぬ部屋だった。おそらくあの香で、眠らされている間に移動させられたのだ。

 誘拐されてしまった……。

 一体どうなるのか、考えるだけでも恐ろしいので、珠子は考えないようにした。

 待遇は悪くなかった。用意されていた局は品のよい現代風の調度が揃えてあり、清潔で気持ちがいい。

 だが、成時が付きっ切りで一人になれないため、精神的に疲れてしまう。なぜここに連れて来られたのかと聞こうとしても、成時はいずれとはぐらかすばかりだ。

「姫、もうおあがりになれませんか? ほとんど箸がつけられておりませんね」

「淑景舎に戻してくれたら食べるわ」

 用意された膳を前に、珠子はぷいと顔を横に向けた。一人になりたい。それなのにこの鈍感男は何もわかってはくれない。

 すると成時がにじり寄ってきたので、珠子はびっくりして仰け反った。

「なっ、何よっ」

「食べられない人には、口移しという方法があるから教えてさしあげようかと」

「……食べれば良いのでしょう食べればっ!」

「良かった。ではどうぞ」

 惇長以外に触れられたくないというのに、唇を重ねるなんてとんでもない。彰親には許しているけども、誘拐一味のこの男には絶対許したくない。品がよさげだろうが、詔子そっくりの端正な顔立ちだろうが、人をかどわかす人間など傍に寄せ付けたくもない。

 珠子はわざと、元のような自分を前面に押し出していた。

 がつがつ乱暴に食べる珠子を、成時はさもうれしそうににこにこ眺めている。変な男だと珠子は思いながら粥を啜った。

 今頃、淑景舎では大騒ぎだろう。

 一条はきっと死ぬほど心配をしているに違いない。

 猫は元居た場所を良く覚えているというから、飛び出しても迷うはずが無かったのだ。

 考えなしに行動した自分が情けなくて、あれほど里下がりを言っていた彰親の危惧の通りになってしまい、どうしたら良いのか途方にくれてしまう。

 珠子がすべて平らげると、見知らぬ女房が現れて静かに膳を下げていった。現れる誰も彼も見覚えがない。つながりはあの霧の君だけらしい。

「ほう、元気な様子だな」

 唐突に衣擦れの音が背後で起きて、振り返った珠子はその男の顔つきに見覚えがあり、瞠目した。

「彰親様?」

「彰親? ああ、お前は弟と懇意だったか」

 ふっとその男は笑い、その場に袖を払って座った。

 よく見たら明らかに別人で、珠子を見る目はとても冷たく、蔑みが滲んでいる。

「私は哉親(なりちか)。あれの兄だ。あの化け物と一緒にするな」

 心底侮蔑しているその物言いに、珠子はカチンときた。

「彰親様は化け物などではないわ! 陰陽頭のくせに言葉を大事になさいよっ」

「フン、小娘がいっぱしの口を叩くな。このように手を煩わせている場合ではない。事は急を要している。成時殿、一刻も早く事に及ばれませ」

「そう急ぐ必要はあるまい。この右大臣邸に惇長殿が来るとすれば、詔子の三周忌の法要の時だけだ」

「何を暢気な。向こうはとっくにこちらに目星がついているのだから、何かあれば貴殿が大変なのですぞ。せっかく霧が作った好機を……」

「貴方は性急過ぎる。それゆえ我が一族は一家離散状態になっているのですよ」

「それは」

 哉親が唐突に会話を打ち切らせた。珠子に聞かせたくない話らしい。

 だが珠子が今一番気にしているのは、ここが後宮ではなく、惇長にとって政敵でもある右大臣の邸であることだ。

石山寺で右大臣一派と関わりがある、源晶という僧に対する惇長の態度を思い出し、珠子は背に冷水を浴びた気分になった。

 珠子は今、敵の陣地の真っ只中に居るのだ。

 そして、義行の中納言は右大臣と繋がっている。新たな企みを思いついたのだろう。

「貧乏宮家の姫のお前でもわかったか。ここから逃げようなどとは思わぬことだ」

「……恥ずかしいと思わないの。こんなの許され……きゃあっ!」

 乱暴に哉親に肩をつかまれて突き飛ばされた珠子は、なす術もなく床を転がった。

「姫!」

「生意気な口を叩くからだ」

 気が動転している珠子を、成時が優しく抱き起こして、乱れた髪を丁寧に直してくれた。

「乱暴は許せないな。姫は私の正妻になるのだから」

「は! 愚かしい。そのような者、遊女にでも貶めてやれば良い。そうそう、重房の大納言殿がそういう集まりを催されているというではないか、たんと遊ばれた後に彼らに贈られてはいかがか」

 ぎくりと強張った珠子の身体を、成時が守るように横から抱きしめた。

「そのような無粋な遊びはせぬよ。まこと、血の恨みとは恐ろしいものよな」

「こんな落ちぶれた宮姫に、含むところなどありはせぬ」

 哉親は、ふんと鼻を鳴らして部屋を出て行った。

「やれやれ……」

 成時の珠子の肩を抱く手に不穏な情熱を感じ、珠子は体中の毛がそそけ立つ心地がする。目を合わせたくないのに、成時の手が頤にかかり、無理に彼の酔った様なまなざしを見る羽目になった。

「寸前まで黙っているつもりだったのに」

「正妻……って」

「もちろん貴女ですよ。私の元でおとなしく、何もされなければいずれ」

 成時の優しげな物言いが、今の珠子にはとても恐ろしかった。

 つまり、この男の胸先三寸で、自分はおぞましいところに放り込まれてしまうのだ。哉親のように乱暴に扱われるよりも、もっとひどいことをこの男にされてしまうのだ。

「先程までお元気だったのに、こんなに元気をなくしてしまわれた。ああ姫。そんなに怯えなくても大丈夫です。私は惇長殿と違っていきなり結婚を迫ったりはしませんよ」

 成時の人差し指が慰めるように珠子の唇をなぞった。

 それに多分な性的な意思を感じ取り、珠子は嫌悪で泣きそうになる自分を必死に我慢した。それが却って成時の興味を引いているのだとも気づかずに。

(怖い。どうしたらいいの)

 止められなかった涙が頬を伝わり、その涙を成時の袖が拭っていく。

 欲しい指先の持ち主は自分を探してくれているだろうか。

 御簾越しに見える、あの冬の空の下のどこかにいる惇長に、珠子はすがり付いて泣きたかった。

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