愛だと信じていた 第10話
恐れている瞬間が来たのは、翌日だった。
貴明様の遅めの朝食をお持ちしたら、お仕事中のはずの奥様がいらして、私を見るなり、こうおっしゃった。
「あら……、ちょうどいいわ、貴女もいらっしゃい」
「あの、どちらへ?」
「圭吾の部屋よ」
「…………」
訝し気な貴明様と、落ち着いた表情の奥様。一刻も早く貴明様の心を、恵美様から引き離されたいらしい……。
私にその権限があったら、こんな残酷な真似は絶対にさせないのに。この方には情というものは、ないのだろうか。その愛は、息子の心を思いやる方向へは、向かないのだろうか。
こんなのは間違っている。奥様は、御自分の思うように、貴明様を支配されたいだけなのではないの? 愛されているのは間違いないけれど、その愛は少なくとも今の貴明様には猛毒だ。
一階の圭吾様のお部屋は、階段を降りたらすぐそこだった。
「……恵美は元気なんですか?」
「ええ、とても元気よ。貴方は実際に見ないと、納得しないと思ったから連れて行くの。ああ、貴女はここで待っていなさい」
圭吾様のお部屋の前で、私だけ外に待たされた。
何か余計なことを言うのではないかと、思い切り警戒されているらしい。貴明様を傷つけまいとするのが、余計な行動なのだとしたら、とんだ勘違いの母の愛情だ。
前に重ねた両手が震える。
どうか、どうか……、少しでも貴明様が傷つかれませんように。
あの方から、天使の微笑を奪わないでください。
……誰に祈っているのかと問い、軽蔑していた神に対してだとわかって、失笑しそうになった。
自分のためになら、神に祈りなどしない。
神は私に対して、何もしてくれやしなかった。
どれだけ祈っても、望んでも、あの男やあの女達は私を家族にしてくれなかった。
私には普通の家庭が、大それた望みだったらしい。
でも。
私などと違って、貴明様は、神に愛されておいでのはず。
美しくて、立派な家にお生まれになって、御曹司で、素晴らしい学力をお持ちで……。
なのに今、恵美様と貴明様を引き裂くのは、どういうわけなのだろう。ただ引き裂くだけではなく、こんな形で現実を知らせるとは、ずいぶん神は性格が悪いらしい……。
「恵美、どうしてこんなところに戻ってきたんだ! ここを出るよ」
程なくして、貴明様の怒鳴り声が響いた。
心底恵美様を思いやっておられる声、なのに恵美様の御心は、記憶障害のせいで貴明様のところにはないのだった。拒絶するような声がわずかに聞こえる。
「こいつらが、今の恵美の境遇の元凶だよ!」
「離してっ!」
強い拒絶の声は、聞きたくもないのに耳に入ってきた。
同時に貴明様の、すがるような御心が砕け散る音も、何故かはっきり聞こえた。唯一の希望が消えてなくなり、独りぼっちにおなりになり、冷たくて暗い闇が押し寄せて来る……。
奇跡は起こらなかった。
貴明様のお姿を見て、恵美様の記憶が治るなどという、都合のよい展開は起こってくれなかった。
ドアが開き、奥様と恵美様が出ていらしたので、黙って頭を下げた。
奥様は恵美様に対して下にも置かぬ態度で、それはそれは大切にされている。恵美様も慕われているらしい。なんと、奥様と圭吾様を姉弟と言っていると聞いた。恵美様は安心して、圭吾様を愛せるというわけだ。
どうして、どうして、こんな残酷な仕打ちをなさるのだろう!
私はお二人のお姿が見えなくなるまで、頭を下げたままだった。お二人を見たくなかった。見たら何か途方もない言葉を、投げつけてしまいそうだったから。
しばらく経ってから、圭吾様が出ていらした。
「医師を呼んでやれ。ギプスが壊れた」
私はそのまま携帯端末で、医師を手配した。寝室でお倒れになっていた貴明様を助け起こし、クッションで楽になられるようにして、医師を出迎えるために部屋の外に出ようとしたところで、応接間にまだいらっしゃった圭吾様に気づいた。
圭吾様は壁にもたれて、煙草に火をおつけになり、ゆっくりと燻らせておられた。
貴明様の気に障らないように、ドアを閉めた。
チャンスを逃さずに、恵美様を手にお入れになった圭吾様は、さぞ幸福の絶頂でいらっしゃるのだろう。思わずそれが表情に出てしまい、咄嗟に消そうとしたけど間に合わなかった。
圭吾様は、私を見下ろされた。
「……わかっている。私が見ているのは短い夢だ」
「このように、貴明様を苦しめることが……?」
「お前は何もわかっちゃいない。神というものは、愛する人間ほど、つらい目にあわせるものだ」
「神を信じておいでなんて……」
この恐ろしいほどのレアリストであられる方が、神など口にされるのはおかしさを伴った。
圭吾様は頷かれた。
「私も昔は、神など信じてはいなかったさ。不平等だらけの世の中の、ただの幻想に過ぎない、弱い奴が、できない望みをぶつけるだけの存在だと思っていた」
「今は違うとでも? 恵美様を手にお入れになったから……」
噛み付くように言う私に、圭吾様はゆっくりと首を横に振られた。
「貴明は神に愛されすぎだ。だからこそ私はあいつが大嫌いだ」
「それで、このようにひどい仕打ちをされるのですか!」
「ああそうだ。母に愛され、家族に愛され、人に愛され、境遇に愛され、社会に愛され、何もかもあいつは持っている。生まれながらにだ。それを当然のごとく受け止めて、感謝すらしないあいつが私は嫌いだ」
「子供じみています」
「そうだな、お前と私は同じだ。お前はだから、貴明から離れられないのだ。うらやましくてうらやましくて、仕方ないのだろう?」
虚を突かれ、言葉が詰まった。圭吾様は、灰皿に煙草を押し付けて、火を消された。
「だが、何度でも言う。さっさと中宮と結婚して貴明から離れろ。あいつを甘えさせて、あいつの子供っぽい感情を甘受してどうする? これくらいの痴情のもつれでどうにかなるのなら、所詮あいつはその程度の男なんだ。お前がそれに付き合う義理はない」
「お断りします」
「……馬鹿が。どうして、すぐそこにある幸せを逃そうとする」
圭吾様は哀れみすら滲ませた目で私を見やり、部屋を出て行かれた。
入れ替わるように医師が来た。
貴明様は、苦痛に耐えるために、固い表情を浮かべていらした。汗びっしょりで、前髪が額に貼りついている。
ギプスを壊すほど、圭吾様は貴明様に嫉妬されている。何もかも持っているという……、奥様に愛されているという、そういう理由で。
医師は、貴明様の左腕を診察して、いたわる様に痛み止めを注射し、ギプスを新しくした。
「……これは痛かったろう」
「…………」
貴明様は何もおっしゃらず、ただじっと目を閉じておいでだ。
医師は汗がひどいから拭くようにと言い、次の診察のために部屋を出て行った。
私は言った。
「お部屋に戻りましょう?」
「……ああ、そうする」
お部屋に戻られるその足取りは、とても重かった。先ほどまでの、しっかりとした歩調はない。迷いと期待が一気に打ち砕かれたのだから、無理もない。
お部屋のベッドに落ち着かれた貴明様に、私はなんとかお寛ぎになってほしかった。
「貴明様、落ち着かれたご様子ですので、お身体をお拭きしましょうか?」
「……そうする」
服を脱がれた貴明様のお身体を、蒸しタオルでせっせと拭いた。やっぱりものすごい汗だ。
左腕の骨折以外、もうほとんど傷は消えている。表面上の貴明様はとても元気におなりなのに……。
拭いている間、貴明様は無言だった。ずっと耐えておられる。身体の痛みではなく、心の痛みに。
私には何もできない。
どうしたって、この方の本当にほしがっておいでのものを、私は持っていない。
無力さがつくづく情けなかった。
「ありがとう、あすか」
「いいえ。それよりお茶をどうぞ」
貴明のお声は、恐ろしく感情が制御され、いつもの覇気がまったくなかった。
お茶を受け取られ、何かを考えておいでのご様子なので、さがろうかどうしようか迷っていると、貴明様は私の名を呼ばれた。
「あすか」
「なんでしょう?」
「僕の傷が治ったら……、もうメイドは辞めて実家へお帰り。借金の事はもう解決したんじゃ無かったかな」
「貴明様……」
この方は今頃になって、ご自分の仕打ちを後悔しておいでなのだ。
どっぷりと濃密な甘い海に浸らせておいて、いきなり引き上げられた私が、どうやって生きていけるとおっしゃるのか。
絶対に嫌だという思いが、炎のように燃え上がった。
思えば中宮には、このような感情はおきない。起きたとしても、もっと静かで穏やかだ。表では激していても心の中は凪いでいた。
すべてが逆だ。貴明様に対する場合、表では静かで、裏では激しい嵐が渦を巻いている。
中宮と結婚したら確かに幸せになれる気がする。出会った時は無理だと思っていたけれど、今ではなくてはならない存在になりつつある。あの安心する世界に、惹かれない女がいるだろうか。
わかっている。頭ではちゃんとわかっている。
でも心はどうしたって拒否する。貴明様の崩壊を、見て見ぬ振りなどできない。
この方は、私にとって太陽なのだから。
私は、首を横に振った。
「いいえ。家に戻っても、また、どちらかに行かされるだけですから。一から覚えるのは面倒ですので、数年はここにいる予定です」
実家などもうない。今の私にはここ以外に居場所がない。家族などない。でも、それは私の個人的な事情であって、貴明様には関係のない話だ。
貴明様は戸惑われた。
「あすか、でもね……」
「今回の件は、貴明様が私を庇われたせいです。それだけでも心苦しいのに、今の傷ついた状態の貴明様を置いてはいけません」
「…………」
一瞬遠い目をされた貴明様は、私にまた礼をおっしゃった後、顔を背けられた。
「……ごめん。今は優しくする自信が無いから、一人にしてくれる?」
「はい……」
本当はこんなに傷ついていらっしゃるのを、お一人になんてしたくない。
だけど、私はただのメイドだ。主人が出て行けといったら、命令に従うしかないのだ。
後ろ髪を引かれる思いで退室すると、ドアの外に奥様がいらした。
「貴明は起きているの?」
「はい」
奥様は、本当に、何もわかっていらっしゃらないのだろうか。
わからないのだろう。
だから、今このときに、貴明様に会いに来られたりするのだ。
中庭に出た。
冬の太陽の陽射しが、とても弱弱しく感じる。
神様。
お願いだから神様。
本当に貴明様を愛しておいでなのなら、どうか、貴明様をこれ以上傷つけないでください……。
そして恵美様もお守りください。記憶を戻された時、あの方が貴明様以上に傷つかないように、どうか、どうか、お願いします。
太陽の陽射しに包まれて、祈っている私は、すぐそばまで来ていた中宮に気づかなかった。
中宮は私に声をかけず、そのまま踵を返して姿を消した。