願わくは、あなたの風に抱かれて 第06話
かさねが桜花殿に入った頃に初雪があり、屋敷の庭が風情のある美しい化粧をしたと思ったのは、7日ほど前の話だ。最初は何もかもが物珍しくてうきうきしていたが、来る日も来る日も降る雪に流石に風情どころではなくなってきて、今では陽射しが恋しくてたまらなくなっている。
また、天井が高いせいか、彰親の屋敷より寒い。
同じ貴族の屋敷でも、身分によって大きさも豪華さも仕える人々も規模も数も質も違いすぎる。噂にきく、後宮ほどの華やかさはないらしいが、大貴族である左近衛大将源惇長の屋敷であるので仕える人は多く、また身分もしっかりしている人ばかりだ。特に女房達は、皆一様に学識があるか何かに秀でており、その一端を垣間見るたびに、かさねはひどく場違いなところにいる気が否めない。恐れていた、誰かが自分を執拗に狙っているという事実を忘れてしまうほど、桜花殿での生活は緊張の連続だった。
そんな別世界で生きているような彼らでも、根は変わらないものと見え、庶民と同じように噂好きだ。
かさねは惇長の親友である彰親のツテで入ってきたので、彰親についてあれこれと聞かれることが多い。しかし、この秋に出会ったばかりで人となりは話せても、恋人の有無やこれまでの人間関係などを思うように答えられないかさねに、桜花殿の者達は、謎の人は謎のままなのだと好き勝手に囁きあっているようだ。また密やかに、かさねと彰親は男女の仲ではと疑われている。
「気にすることなんてないわ。夫でもない殿方について詳しい方がおかしいでしょう。あ、変な縫い目になっちゃった。ちょっと見てくれる?」
紅梅の君が差し出した布を見て、かさねがこれはまずいと言うと、残念そうに針を抜いて糸を丁寧に引き抜いていく。
紅梅の君は、かさねより一月ほど先輩の女房だ。
今、二人はせっせと縫い物に精を出している。かさねは裁縫が得手という触れ込みでこちらの女房になったため、来た翌日から縫い物ばかりだ。縫う衣装は大量にあり、裁縫がいくら得手でも食傷気味だ。しかし、正月を前に縫い物は増えていく一方な上、高価な布地のものに変わってきており、これは一体誰が召されるのかと、晴れがましい一方で空恐ろしい心地もする。それほどかさねの腕が素晴らしいのだという証なのだが、世間知らずな本人は全く気づいていない。紅梅の君は人の心の機微に聡いので、やたらとかさねを褒めちぎったりはしない。褒めすぎると、内気なかさねがますます萎縮して、縫うのに差し支えが出かねないからだ。ゆえに、できる限り普通を装っている。そして、気を抜くように様々なお屋敷の内外の出来事を話してくれるのも彼女だ。紅梅の君が居なかったら、さぞ寂しい新参女房生活だっただろう。
「もし知っていたとしても、自分のお仕えしている主人について、あれこれと話さないわ。どこの家でも嫌がられることよ。家族についてだって同じよ」
「そうね。でも、紅梅の君の御父君は摂津の守でいらっしゃるでしょう? 先日も海の幸を頂きましたし、御母君もとても素晴らしい刺繡をされる手先の器用な方だし、それについては皆が知りたくなるのも仕方ない気がします」
手本にと手渡された刺繍が、とても細かく優美な出来だったので、それをかさねは時折眺めて楽しんでいる。
紅梅の君は家族を褒められて、うれしそうに微笑んだ。もともと綺麗な人なので彼女は殿方に人気がある。
紅梅の君は結婚の際の箔付けと、情報収集のために桜花殿に勤めている。当然年若く、まだ十五歳だ。それなのに世の渡り方はかさねなど比べ物にならないほど上手で、かさねのような引っ込み思案で口下手な人間にはそれがとても羨ましい。
「でも、父の貝集めは異常で、母も参っているの」
「あら、この間頂いた桜貝はとても素敵じゃないですか」
かさねは薄い桃色の小さな貝を数枚もらい、大切に保管している。
「あれ一つならね……。蘇芳、いつかうちの屋敷に来てくださる? そうしたら何故皆が参っちゃうのかわかるわ。塗籠が貝の詰まった桶だらけなの。あんなの盗人が見たら怒るわよ。宝どころか得体のしれないもの満載なんだもの」
「まあ……」
一体いかほどの貝が収められているのかわからないが、紅梅の君は余程それにうんざりしているらしい。
「父上に貝の話をしたら駄目よ。延々と話し続けて大変なことになるから」
延々と貝について話しこまれている紅梅の君と、その母君を想像して、思わずかさねは吹き出してしまった。学問をしている若君たちより大変なことだろう。
「あ、笑いましたね。絶対にうちに来てもらうわ。そうしたらわかるんですからね!」
「楽しみにしております」
こんな感じで仲良くしてくれるのが、かさねはとてもうれしかった。紅梅の君は、かさねだけではなく、どの人に対しても平等に接しているが、本人の言う通り、かさね以外に家族のことをこんなに詳しくは話していない。つまり、かさねを好ましく思ってくれているのだ。
「ごめんなさい。うちの話ばかりして。蘇芳はご家族のことまだ思い出せないの?」
蘇芳とは、かさねの通り名だ。彰親の束帯の色なので繋がりがあるとすぐにわかる。
「……何も。私もここまで長引くとは思っていませんでした。縫い物が得手なこと、歌と学問と琴ができないことしか思い出せませんの」
悲しいほどに、かさねは縫い物以外の才がないようで、せめてもの救いは字が人並みに書けることぐらいだ。
「大丈夫よ。記憶が戻ったら、忘れていた凄い事ができるようになるかもしれなくってよ」
紅梅の君は目をキラキラさせて励ましてくれるが、とてもそうなるとは思えない。
手が冷えてきたので火桶を引き寄せて温めていると、濡れ縁をこつこつと叩く音がした。
またかと思いながら御簾を上げて濡れ縁へ出ると、由綱という、ここの主人である惇長の付き人である大夫が、雪が舞い散る中ニコニコ笑って立っている。彼は、惇長と乳兄弟でもあるらしい。何かを言い含められているのか、毎日やってきて何かを話していく男だ。内気なかさねにも陽気に話してくれるものだから、今ではすっかりかさねも慣れてしまっている。
「これから対の上の所へ行かれるのですよね? 殿もおいでになるからしっかりおやりなさいよ」
「え?」
お目見えは日をおいてと聞いていたが、いきなり今日と言われてかさねは戸惑った。
振り返ると、紅梅の君も知らなかったようだ。
「なんでいきなり今日に……」
「いえ、今日は陣の日だったんですけどね。左府様のお乗りになった車が、お屋敷を出てすぐの角を曲がった途端に、狐の死骸という穢れに出くわしまして。すぐに引き返されて、御物忌でお籠りになったんです。まあ、今日は重要な事案もありませんから、取りやめということになりました。急遽に休みと対の上が元気になられた、それで今日になったんですよ」
「そうなんですか」
話しているうちに、対の上のおつきの女房の一条が使っている、若い女房が呼びにきた。いよいよお目見えは本当のようだ。胸がどきどきする。紅梅の君を見ると、大丈夫よと頷いてくれた。
「そうそ、彰親殿も午後にはいらっしゃいますよ」
「殿もお忙しいでしょうに」
今は師走だ。来年にかけて宮中の行事が集中していて、それをいかに安全に行うかどうかで、陰陽寮は目の回るような忙しさのはずだ。
「お忙しいからこそ、息抜きが必要なんですって。うちの殿も良いところがあるでしょう?」
「はあ」
この桜花殿の主人の惇長には、来て翌日に目通りが叶っている。対の上だけ遅れているのは、当日、体調を崩してしまわれたからだ。
惇長に抱いた第一印象は”怖い”だった。武官も兼任している男なので、威圧感が半端なく、居るだけで緊張してしまう。きつい物言いも、理不尽な要求もなかったが、空気が重くて辛かった。それは身分の重さなのかもしれない。実直な人物であるらしく、気の利いた事は一切口にしなかったし、場を盛り上げたりもなかった。彰親のような気楽さが皆無で、あの明るい空間を懐かしく思ってしまったほどだ。
気を重くしているかさねを、由綱が慰めてくれる。
「まあそう暗い顔しないでやってくださいよ。うちの殿、女の人が苦手でしてね。あの日は初対面の貴女に、どう話したら良いのかわかんなくって困ってたんです」
とてもそうとは思えなかった。
「さ、いらっしゃい」
話の合間を見計らって若い女房が言う。
かさねはその若い女房に先導されて、対の上の部屋へ向かった。
そのへんに控えている女房たちとはすでに顔見知りだ。皆、緊張しているかさねを微笑ましく見ている。
初めて入る対の上の部屋は調度類が一層きらびやかで、若い女房に代わって、対の上のおつきの女房の一条が先導してくれた。この一条が、桜花殿の裏方をすべて掌握していると言っても過言ではないと、紅梅の君が教えてくれたっけ。蘇芳とは、この一条がつけてくれた通り名だ。
檜扇で顔を隠しながらどんどん奥に進む。膝でいざりながら上のおいでになるところから少し遠くで控えると、一条が紹介をしてくれた。対の上の声はほのかにしか聞こえない。その声に何故か聞き覚えがあった。
こんな身分の重い方と知り合ってなどいないはず。
でも知っている。
優しい、心に染み入る、明るくて、こちらまで微笑んでしまうようなこの声は……。
震える檜扇を僅かにずらして、そっとかさねは対の上を垣間見た。
「あ……」
持っていた檜扇が床へ滑り落ちていく。
同時に胸元に収めてある、彰親からもらった呪符が強い熱を持った。この呪符はかさねの髪が人前で黄金色にならないようにと、彰親がその力を封入したものだ。それが強く反応している。周りの女房たちには、かさねが緊張のあまりに檜扇を落としたようにしか見えないが、かさねは己の胎内に渦巻く熱が外に放射するのを必死に耐えていた。
「貴女、かさねではないの?」
対の上が、先程よりははっきりした声でお聞きになる。
「姫、様……。貴女、生きて……」
この人は死んだはずだ。
あの夜に姫様のお住まいになっているお屋敷は火事になって……。
ごった返す人々。その中を必死で進んで。火の粉が舞い散り煙が充満する中、消火に奔走する検非違使に押し返されて、誰かが危険だと引き離してくれた。でもあの屋敷の中に姫様が居る、助けなければと叫んだ。あれではもう助からないと誰かが言う。
胎内の熱はいよいよ熱くなり、呪符が効力を失いそうになる。
その時だ。
外からかさねを目掛けて一直線に吹き下りてきた風が、呪符を吹き飛ばそうとした。凄まじい勢いであたり一面が引っくり返りそうなものだが、風を感じているのはかさねの内面だけで、周りの皆には何もわからない。現実には風は吹いていないのだ。
(見つけた。かさね)
若い男の声が風に乗って聞こえる。
嫌。嫌。戻りたくない!
嫌だと思っても、熱は治まらない。
「蘇芳、どうしたのですか?」
「かさねどうしたの?」
心配する一条の声に重なる姫様の声。
そこへ、貴族らしからぬ慌ただしい足音が、後ろから響いてきた。
「かさね!」
後ろからあの優しい風がかさねを包んだ。
彰親だ。
不気味な風が止んだ。
安堵感から、かさねは彰親に背後から抱かれたまま、その場で気を失った。